デヴィッド・リンチ監督の作風を確立 転換点となった『ブルーベルベット』を読み解く

 フランクの振る舞いは、異常きわまりないものだ。ガスを吸いながら性的興奮を高め、下品な言葉を使い威嚇しながら、ドロシーに「マミー!」と甘えてみせ、ベルベットを自分の口に突っ込みながら犯すのである。デヴィッド・リンチはボーイスカウトの最高ランクである、「イーグルスカウト」の称号を持っていたというが、まさにボーイスカウト的な真面目さと純粋さを見せるジェフリーにとって、この光景はあまりに衝撃的なものだったといえるだろう(もちろん観客にとっても)。

 そんなおそろしくおぞましいものを目にした後でも、いや、だからこそジェフリーは、よりドロシーに惹かれていくことになる。そして、成り行き上、彼女を殴ってしまったことで、自らもまた性的な興奮をおぼえてしまうのである。ジェフリーは自分のなかに、フランクのような異常性と暴力性を発見し、強烈な嫌悪感と罪悪感にさいなまれていく。

 ジェフリーの父親は、ちょうど入院して身動きが取れない状態だ。ジェフリーは、父親不在という事態のなかで、当時なりの感覚で“大人の男”になるという責任感を感じていたと想像される。社会で生きる大人たちは、多かれ少なかれ、現実の汚なさに触れるものだ。彼もまた、一足飛びでこの試練に立ち向かい、甘美な誘惑へと誘われるとともに、自分のなかの唾棄すべき暴力的衝動と向き合うことにもなるのである。また、サンディとドロシーという、ジェフリーにとって対照的な女性に同時に惹かれることもまた、彼のなかの二面性を、さらに際立たせる。

 ジェフリーは、フランクに捕らえられて“恐怖のドライブ”に同行させられ、しこたま殴られる。その後、傷ついて混乱したまま裸で夜の住宅地に現れたドロシーを助け、それをきっかけにドロシーとの不貞をサンディに気づかれるなど、世界の暗部をその身で体験するという試みは、相応の代償を払わせられる結果になることを学習する。住宅地で裸の女性を目撃するといったシチュエーションは、リンチ自身が子ども時代に実際に経験したことであり、衝撃を受けたことが基になっているのだと、本人が明かしている。

 そしてクライマックスでは、本作で最も異様な構図が出現する。それは、事件にかかわる「黄色い服の男」と「耳のない男」が、ある種の前衛芸術、またはインテリアの一部でもあるかのように、室内に佇んでいるという姿だ。しかも、その片方はかろうじて生きていて、ロボットが誤作動を起こすかのように動き出す。この、シュールレアリスティックな不気味さこそ、まさに本作の“魂”であり、デヴィッド・リンチの真骨頂だといえよう。

 さらに興味深いのは、ここまで不穏なものを描いておいて、ラストはあっけないほどのハッピーエンドを迎える点である。ジェフリーは、自身の内面にも潜む“暴力”や“不誠実さ”の象徴であるフランクを倒し、ドロシーは息子との生活を取り戻す。あまつさえ、サンディが夢見ていた“闇の世界に舞い降りる愛の象徴”であるコマドリすら登場し、まるでおとぎ話であったかのように、物語は幕を閉じてしまう。

 通常、こういった暴力的な映画作品では、もっとほろ苦いラストが用意されているものだ。しかし、例えば『イレイザーヘッド』をはじめ、『ワイルド・アット・ハート』(1990年)や『ツイン・ピークス』の劇場版である『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』(1992年)でも、やはり超現実的な存在が現れ、祝福や慰めを与えるように、このハッピーに振りきれたラストは、悪夢と対になる理想的な世界を、あえて表現したものだといえよう。

 しかし、コマドリが冒頭の甲虫をついばんでいる描写を、どう捉えたら良いのかは、観客によって意見が異なるところだろう。これは、正しい存在が悪を駆逐した姿として理解される一方で、より強い者が暴力によって弱い存在を搾取した姿にも見える。世界は、やはりおそろしいものなのではないか……コマドリの表現は、そんな印象を本作の終わりに刻んでいる。

 そんな本作は、デヴィッド・リンチ監督の作品を理解するうえで、なくてはならない一作であることは間違いない。本作の要素が洗練されたかたちで『ツイン・ピークス』のパイロット版が作られ、圧倒的なセンスによって『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』という、あまりにもおそろしく美しい一作へと昇華したからだ。そしてさらに変奏されて、新たな装いが施された、充実のノワール作品群、『ロスト・ハイウェイ』(1997年)、『マルホランド・ドライブ』(2001年)、『インランド・エンパイア』(2006年)へと繋がっていく。

 これらのリンチ美学の極地へと達する作品に比べると、本作『ブルーベルベット』や『ワイルド・アット・ハート』は、やや野暮ったく、牧歌的な印象すら受けることも確かだ。しかし、のちの前衛的で尖った作品をいきなり観て、すぐにその真価を理解できる観客は限られてくるはずである。その意味では、本作の主人公ジェフリーが、耳を拾ったことをきっかけにして、闇の世界の扉を開いたように、リンチ監督の悪夢世界を体験してみるという意図において、本作ほど都合の良い作品もないだろう。リンチ作品そのものが好き嫌いの分かれる作風だけあって、自分に合っているかどうかを確かめるために本作をリトマス試験紙として、今後の鑑賞の選択を決める参考にするというのもいいかもしれない。

■公開情報
『ブルーベルベット 4Kリマスター版』
新宿シネマカリテにて公開中
出演:カイル・マクラクラン、イザベラ・ロッセリーニ、デニス・ホッパー、ローラ・ダーン、ジョージ・ディッカーソン、ディーン・ストックウェル、ホープ・ラング
監督・脚本:デヴィッド・リンチ
製作:フレッド・カルーソ
製作総指揮:リチャード・ロス
撮影:フレデリック・エルムズ
編集:デュウェイン・ダナム
美術:パトリシア・ノリス
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
配給:鈴正、weber CINEMA CLUB
提供:weber CINEMA CLUB
1986年/アメリカ/カラー/120分/PG-12/原題:Blue Velvet
BLUE VELVET ©1986 Orion Pictures Corporation. All Rights Reserved.
公式サイト:https://www.suzushow.co.jp/
公式X(旧Twitter):@weberCINEMACLUB
公式Instagram:@weber_cinema_club

関連記事