吉高由里子の“己を曲げない強さ”が『光る君へ』の根幹に まひろと道長の物語が再び始まる

 6月30日放送のNHK大河ドラマ『光る君へ』第26回の冒頭、まひろ(吉高由里子)は、夫となった宣孝(佐々木蔵之介)から、「よく映る」鏡をプレゼントされる。「このようなよく映る鏡で自分の顔をまじまじと見たことはありませぬ。うれしゅうございます」と言うまひろ。思い出すのは第24回における「自分が思っている自分だけが自分ではない」という宣孝の言葉である。実際、自分の目で見えることだけが世界のすべてではなく、時には、「他者の目から見た自分」について知ることも必要だ。

 まひろは宣孝との新婚生活に暗雲が立ち込める中で、いと(信川清順)から「己を曲げて誰かと寄り添う」ことの大切さを学ぶ。片や道長(柄本佑)は、姉である詮子(吉田羊)に「娘をかばうよき父親の顔をして、苦手な宮中の力争いから逃げている」一面を指摘される。一方、公任(町田啓太)による「己のために生きておらぬ。そこが俺たちとは違うところ」という道長評も、いつもながら的を射ている。

 また、回を重ねるごとに儚げな様子が増す、美しい定子(高畑充希)は、一条天皇(塩野瑛久)やききょう(ファーストサマーウイカ)といった彼女を愛する人たちを除き、「帝を思いのままに操られるしたたかなお方」など散々な言われようである。そして、父である道長からも「何も分からぬ娘」と思われている、口数が少なく「まだ子供」である彰子(見上愛)は、晴明(ユースケ・サンタマリア)の言葉通りなら「朝廷のこの先を背負って立つお方」になると言う。そんなそれぞれの「他者から見た自分」の功罪を、そして、みだりに他者にラブレターの中身を吹聴されることの浅ましさを思う第26回は、まひろと道長の運命が、辿りつくべきところへ辿りつく寸前の、それぞれの葛藤の日々を示したものでもあった。

 まひろが父・為時(岸谷五朗)の赴任地である越前を離れ、都へ戻り、「ありのままの自分をまるごと引き受け」てくれるはずの宣孝の妻となるが、喧嘩ばかりの新婚生活を送る様子を描いた第25回と第26回は、同時に「己のために生きていない」道長が世の安寧を保つため、「いけにえ」として「手塩にかけた尊い娘」であるところの彰子を入内させると決意するまでの時間でもあった。改めて思い起こさずにはいられないのは、本作の序盤である。本作の始まりの頃のエピソードの、形を変えた反復。それはまるで、本質は変わらないまま生きてきた2人が、当時の父や母の立場に立った時、何を思うのかという問いを物語自体が突きつけているかのようだ。

 彰子の裳着の儀の場面は、規模は大きく異なるが、第2回のまひろの裳着の儀の場面に重なる。同じく第2回において、詮子の入内の不幸を目の当たりにしている若かりし日の道長は、毎日が楽しそうなまひろの自由に惹かれていたにも関わらず、第26回において、自ら娘を入内させようとしている。とはいえ当時の父・兼家(段田安則)と同じかというと、「家のため」ではなく「朝廷・世の安寧のため」であり、呪詛の提案は頑なに固辞するなど、やはりかつての宣言通り、父・兄とは違う道を進んでいるのである。

 まひろもまた、女性が絶えない宣孝の性格を慮った為時から「お前は潔癖ゆえそのことで傷つかぬよう心構えはしておけよ」と忠告を受け、その後も様々な理由で言い争う様子を見かねたいとに「己を曲げて誰かと寄り添う」「それがいとおしいということ」と諭される。それはまさに第1回において、母の他に、通う女性がいる父・為時に憤るまひろ(落井実結子)に対し「もう少し大人になれば分かるわ」と呼びかけるちやは(国仲涼子)の言葉が、妻となったまひろ自身の身に降りかかったとも言える。

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