『オッペンハイマー』は“主観”の映画だ ノーランが我々に自覚させる人間の“脆さ”
ノーランはフロントラインをオールスターで固めながら、脇には画面いっぱいに性格俳優を敷き詰め、ここにアメリカ映画ならではの充実がある。ジョシュ・ハートネット、デイン・デハーン、ジェファーソン・ホール、それにオッペンハイマーの盟友イジドール・ラビ博士に扮したデヴィッド・クラムホルツは映画の宝である。また『博士の異常な愛情』のストレンジラヴ博士のモデルとされる“水爆の父”テラー博士を怪演したのは、傑作『アンカット・ダイヤモンド』などで知られる兄弟監督“サフディ兄弟”の弟ベニー。近年、ポール・トーマス・アンダーソンの『リコリス・ピザ』から2023年はエマ・ストーン、ネイサン・フィールダーと共演した異色テレビシリーズ『ザ・カース』、子煩悩な父を演じた好編『神さま聞いてる? これが私の生きる道?!』に出演する八面六臂の活躍で、今最注目のユダヤ系クリエイター、俳優である。
1945年7月16日、人類初の核実験“トリニティ実験”が決行される。映画全体を司るルドウィグ・ゴランソンのスコアは頂点に達し、シアターの直上を爆風が吹き抜けるかのようなスペクタクルは大きな見せ場ではあるものの、真骨頂は後の場面にこそあると感じた。実験の成功後、原爆の支配権はオッペンハイマーの手からするすると抜け落ちていく。ヒトラーが自殺し、既に大勢が決した中、日本への原爆投下はなし崩し的に決められ、ヒロシマ、ナガサキへと向けられた。映画では現地の惨状が画面に映ることはない。原爆投下の成功と終戦に湧く聴衆の前に立ったオッペンハイマーは、眼前の人々が熱線に焼かれていくさまを幻視する。歓声が耳をつんざく阿鼻叫喚の断末魔へと変形する光景はノーラン映画技術の到達点とも言える演出だ。しかし理論家であるに加え、人類史上最大の実験を成功させた科学者でありながら、それでもなおオッペンハイマーのヴィジョンはここ日本に暮らす一観客の筆者にとって生ぬるいとすら思えた。
『オッペンハイマー』は“主観”の映画である。ナチスとの原爆開発競争を迫られたユダヤ人科学者たち、戦地に愛する人々を送ったアメリカ国民、原爆開発にのめり込んだオッペンハイマー、この物語を映画にしたクリストファー・ノーラン、原爆の惨禍を世界中の誰よりも知るであろう日本の観客たち。映画が政治的プラカードになるのを拒否するノーランは観客を脱落寸前のスピードまで振り回しながら知的好奇心を喚起し、観る者に問いかけ、あの時何が行われ、そして私たち1人ひとりに厳然たる差異と溝があることを自覚させる。人間は曖昧で不完全であり、多くの過ちを犯す。脆さを抱えた私たちは、オッペンハイマーの作った核のある世界に共に生きているのである。
■公開情報
『オッペンハイマー』
全国公開中
監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローヴェン
出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー
原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー』(ハヤカワ文庫)
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画
2023年/アメリカ/R15
©Universal Pictures. All Rights Reserved.
公式サイト:oppenheimermovie.jp