岡田准一主演映画『最後まで行く』の“奇妙さ”の正体 韓国オリジナル版からの変化とは?

 後に『パラサイト 半地下の家族』(2019年)で、豪邸に暮らす一家の父親役を演じたイ・ソンギュンが主演し、話題を集めていた韓国のクライムサスペンス映画『最後まで行く』(2014年)。主人公の刑事が犯した罪を逃れるため七転八倒する内容の面白さが世界的に評価され、中国やフランス、フィリピンと、各国でリメイクされた一作だ。ここで紹介する同名の日本映画『最後まで行く』は、岡田准一主演、綾野剛共演で送る日本版リメイクである。その内容は、もともと奇妙さがあったオリジナル版よりも、さらに異様な雰囲気が漂っていた。

 そんな韓国のオリジナル版と日本版では、どのような違いがあったのか。その点を振り返りながら、日本版である本作『最後まで行く』が表したものについて、意図的な部分と、おそらくは意図せざるとこで表出してしまった“奇妙さ”の正体について、この記事ではできるだけ深いところまで明らかにしていきたいと考えている。

 日本版のストーリーや設定は、基本的には韓国のオリジナル版と同じものだ。主人公の工藤(岡田准一)は、ヤクザから賄賂を受け取っている、ケチな悪徳刑事。彼がある夜に危篤の母親のいる病院へ向かう途中、乗用車で男を轢いてしまうことから、本作の物語が動き出すことになる。夜の道路に投げ出された男はすでに死んでいて、パニックに陥った工藤は、死体を自分の車のトランクに隠し証拠隠滅を図ろうとするが、罪が暴かれそうになるピンチに何度も直面し、ある大きな陰謀に巻き込まれることともなるのだ。

 冒頭部分で理解できるように、工藤は正当なヒーローには到底なり得ない存在だ。賄賂を受け取っていることはまだしも、轢き逃げという卑劣な罪を犯すばかりでなく、死体を隠そうとまでしているのである。通常の娯楽映画は、こういった共感を呼びにくい人物を主人公とすることは少ない。観客の多くは、心を寄せられない人物の物語を追いたいと思いづらいからである。やっている悪事のケチさを見ても、悪人の美学を描く「ピカレスクロマン」のような楽しみ方ができるわけもない。

 しかし、サスペンスというジャンルにおいては、このような犯罪者の立場を体験させるという趣向が功を奏する場合がある。サスペンス映画の金字塔『サイコ』(1960年)は、会社の金を横領して逃亡する女性を描いたり、殺人の証拠を隠滅しようとする男性を描く作品だが、このような描写を臨場感を持って主観的に描くと、興味深いことに観客は思わず犯罪者側の立場になって画面を観てしまうのだ。犯罪を犯す当事者のスリルを味わったり、悪事が露見しないようにと願いさえしてしまう。

 本作で死体を隠そうと工藤が必死に右往左往する場面では、悪趣味でシュールなユーモアが展開していく。これもやはり、ヒッチコック監督が死体という要素を使って人々が右往左往するところを描いたコメディ『ハリーの災難』(1955年)を想起させるものがある。このような悪趣味さを笑いに転化するというのは、ヒッチコックが皮肉なユーモアを好むイギリスの出身だというのが大きいと考えられる。日本の観客は、このような趣向にギョッとしてしまうかもしれないが、日本でも落語などで、古くから死体を使ったネタで笑いをとっていたのも確かなところだ。

 轢き逃げだったり人間の遺体を愚弄する行為は、もちろん現実では許されるものではないが、映画自体がその行為を肯定的に表現せず、悪事を悪事として描くことで、娯楽として成立することがある。ただし、この試みは一部の観客をいたずらに傷つけかねない危険な領域であることも確かで、だからこそ、この手の脚本は細心の注意を求められることになるといえるだろう。本作においては、工藤がひどい目に遭う度に、自分の行動のツケを払わされているという見方ができ、彼が苦心惨憺すればするほど作品の倫理性がむしろ保たれるという構造は、意表を突いていて面白いと感じられる。

 オリジナル版も含め本作では、さらに展開に“ひねり”を加えることによって、工藤の罪を一部軽くするといった工夫がなされている。そして、より大きな悪の存在を出現させ、その人物にさらに卑劣な犯罪をおこなわせることによって、観客に工藤に心を寄せられるような対立構造を新たに構築し、よりスタンダードな娯楽映画に復帰して、ジャンルを途中から更新してしまうというアクロバティックな試みもみられるのだ。これを見事におこなったオリジナル版が、世界でリメイクされたというのも納得できるところだ。

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