朝ドラの核心“見えんでもおる”が貫かれていた『らんまん』 脚本・長田育恵の魅力

「さあ望みや! おまんは何がしたいがぜ?」
「わしは……。わしは、この花の名前が知りたい!」

 天狗こと坂本龍馬(ディーン・フジオカ)に問われた万太郎(森優理斗)が胸を張って答えると、足元の葉と茎がたちまち息吹を取り戻して花を咲かせる。4月3日から放送スタートした『らんまん』(NHK総合)第1週の週タイトルは、後ろ髪引かれる思いで旅立っていった万太郎の母・ヒサ(広末涼子)が愛した「バイカオウレン」だった。

 走っただけで熱を出して寝込んでしまうというのに、身体から飛び出しそうなほどの好奇心を抱えた万太郎は、植物が大好き。体が弱いことで、自分が「みんなあと違う」と思い悩んでいたところ、分家の豊治(菅原大吉)が言った「万の字はいっそ生まれてこんほうがよかった」という陰口を聞いてしまい、5歳にしてアイデンティティ・クライシスに陥る。

 母のヒサは、万太郎がどれだけ大切な存在であるかを切々と説きながら言う。

「神さんは見えんでもおるがよ。神さんも雷さんも、天狗やちおるがやき」
「お父ちゃんやちおるよ。見えんようになっただけで、万太郎のこと、ちゃあんと守っちゅう」

 長らくのあいだ病床に伏しており、先立った夫と同じように、ほどなく自分も「見えなくなって、息子を守る存在」になることを悟っているヒサの思いが胸に迫る。第2話で登場したこの「見えんでもおる」というキーワード。実は「朝ドラあるある」のひとつで、なおかつ、とても大事な要素なのだ。

 見えなくても、在る。亡くなった家族や愛する人の思いを胸に、主人公が生きる姿。受け継いで抱き続ける志。そういった、主人公の中で血肉化した「何か」が、ふとした言動に現れ出てきて、「いなくなったあの人」の存在がよぎる。朝ドラでは、こうした風景をよく見かける。半年という長い時間をかけて、人物の軌跡を積み重ね、人生を紡いでゆく朝ドラならではの醍醐味だ。そしてこれは、「人は自分ひとりで生きているつもりでも、実は“生かされて”いる」という真理でもある。

 この思想を物語のはじまりに持ってきた『らんまん』は、「見えんでもおる」人、もの、ことを、大事に扱うドラマなのではないだろうか。この先肉体は消えたとしても、ヒサはずっと万太郎を見守り、また万太郎もヒサの思いとともに生きていくのだろう。病弱だったヒサが焦がれた「名も知らぬ花」は、冬の間姿は見えなくともしっかり根を張り、力を蓄え、春に白い花を咲かせる逞しい花だった。名前を知らなくとも、確かにその花は「おる」。

 その花を絵にして、母に贈る。危篤の母に「命の力」を届けたくて、雪が散らつく冬の日に花を摘みに出る。けれど見つからず、違う花を採ってきてしまう。あの「名も知らぬ花」のほころぶ春を待たずに、母は逝ってしまった。この原体験が、どれほど強く万太郎を突き動かすことだろう。「わしは、この花の名前が知りたい!」。真っ直ぐな衝迫が伝わってきた。

 「生まれてこんほうがよかった」と言われ、べそをかく万太郎の目の前に現れた坂本龍馬の存在も大きい。

「要らん命らあ、ひとつもない。この世に同じ命らあ、ひとつもない。みんな自分の務めを持って生まれてくるがじゃき」

 龍馬のこの言葉は、万太郎の存在をまるごと肯定してくれるとともに、ひとつとして同じ存在のない、人間、草や花や木、生きとし生けるものに贈られる讃歌だ。万太郎のモデルである「日本の植物学の父」牧野富太郎は、生涯を通じて何十万もの植物に出会い、千数百もの植物に名前をつけ、この世に「『雑草』という草はない」という至言を残した。

 最初に万太郎の目前に現れた龍馬の姿が、実体なのか、幻なのかは明示されない。しかし、ヒサが愛した白い花が咲き誇る野辺で、「おまんは何がしたいがぜ?」という声を万太郎が聞いた明治元年の春に、坂本龍馬はこの世にいない。龍馬は万太郎のメンターか、あるいはハイヤーセルフなのかもしれない。自らも大きな「務め」を果たして義に散った、「見えんけどおる」龍馬の存在が、この先も万太郎の人生の羅針盤となるだろう。本作の脚本を手がけ、数々の舞台やミュージカルの戯曲で名を馳せてきた長田育恵によるファンタジーの用い方の巧みさが際立つエピソードだ。

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