2パック&ビギー暗殺の真相に迫る 『L.A.コールドケース』は米社会の闇を照らす一作に

 先日、アメリカの人気ドラマ『アトランタ』のシーズン3を観ていたら、<2パックはアムステルダムで生きていて、今からその葬式が行われる>というオドロキのプロットが練り込まれたエピソードがあった。もちろん、皮肉が効いたジョークの一つだったのだが、<2パック生存説>はそれくらい、一つのクリシェとして扱われるトピックでもある。2022年の今になってもなお、<彼はアフリカで生活している>といった類のネット上のミームが拡散されるほどだ。(※1)

 1996年9月に、ネバダ州のラスベガスで2パックが何者かに撃たれて亡くなった。そして、ついで1997年3月、ビギーことザ・ノトーリアス・B.I.G.が同じく何者かに撃たれて命を落としている。それぞれ、2パックはロサンゼルス、ザ・ノトーリアス・B.I.G.はニューヨークを拠点としているラッパーであり、一時的に滞在していた都市で銃撃された形だ。そして(繰り返すが)2022年の今になってもなお、この事件は未解決のままだ。生前の二人がラッパーとして残したインパクトの大きさからして、この二つの事件はいわば神格化され、「誰が彼らを殺したのか?」というテーマは年々語られ続けている。同時に、先述したような<生存説>もあとを絶たない。彼らが殺された90年後半は、ヒップホップがどんどん商業化へと舵を切り、ヒットチャートの上位にラッパーたちの楽曲が並ぶことも珍しくなくなってきた時代。実際に1996年のビルボード年間シングル・チャートTOP100を見てみると、2パックやザ・ノトーリアス・B.I.G.のほか、ボーン・サグズン・ハーモニーやLL・クール・J、クーリオ、バスタ・ライムズ、アウトキャストらの名前が確認できる。(※2)

2Pac - Dear Mama

 ラッパーたちのファッションやライフスタイルは段々と華美になっていき、特にザ・ノトーリアス・B.I.G.を送り出したレーベルであるバッド・ボーイ・レコードは、主宰者のショーン・コムズ(通称パフ・ダディ)の手腕もあって、マフィア映画のような重々しさと華やかさをイメージに付帯し、アーティストを売り込んでいった。ザ・ノトーリアス・B.I.G.やリル・キム、クレイグ・マックなどニューヨーク出身のアーティストらを次々と発掘してヒット曲を量産した東のバッド・ボーイ・レコードに対し、ギャングのイメージを植え付け……というより、ホンモノのギャングによって運営されていたのが西海岸のデス・ロウ・レコードだ。現在も服役中である首謀者、シュグ・ナイトは、当時収監中だった2パックに巨額の保釈金を用意し、ヒップホップ史上初の2枚組アルバム『All Eyez On Me』を華々しくリリースさせた。東と西、それぞれ派手な路線を押し進めようとしたレーベルだったが、徐々に両者の対立構造が浮き上がるようになり、ヒップホップ・メディアはこぞって<東西抗争>と書き立てた。結果、先に記した悲しい銃撃事件が起こったわけだが、2パックとザ・ノトーリアス・B.I.G.という故人二名の光が強すぎて、その影の奥には奔走していた一人の刑事がいることを、私自身はろくに知らなかった。

 『L.A.コールドケース』は、寡黙な映画でもある。未解決事件の真相を華麗に暴き、最後は真犯人も逮捕されて一件落着、スッキリした〜という筋書きは事実上、到底無理だ。しかしながら、これまで(特にヒップホップ・ファンには)ゴシップ的に語られることも少なくなかった実際の銃撃事件に関して、淡々と緻密に描かれていく様子は非常に興味深い。そして、フォレスト・ウィテカー演じるジャック・ジャクソンの泥臭く熱心な取材により、ジョニー・デップ演じるロサンゼルス市警の元刑事であるラッセル・プールの発言や過去の証拠が明らかになっていくとともに、神話化され、語り尽くされてきたように思える二人の銃撃事件にまるで血が通っていくような感覚を覚えた。例えば、私が最も印象に残っているシーンの一つがこちら。プール元刑事に訝しがられながらも、彼のアパートへの訪問を続けるジャック。2度目の訪問の際に「ビギーを撃ったのは誰だ?(Who shot Biggie Smalls?)」と率直に問いただす。それに対するプールの答えは、この一言だった。「彼について言及するときは、クリストファーかミスター・ウォレスと呼べ(※ザ・ノトーリアス・B.I.G.の本名はクリストファー・ウォレス)」。ラッパー、ビギーとして慕われつつも、銃弾に倒れた彼には母親がおり、遺族がいる。本編の中にも、実際に彼の母親であるヴォレッタ・ウォレスが登場するシーンがあり、プールが事件に関する会見で「母親や遺族に恩義がある」と述べるシーンがある。これまで事件を通してスポットライトが当たってきた<ビギー>は虚像であり、このプールだけが、センセーショナルな死後もなお、彼を<クリストファー・ウォレス>という一人の人間として扱った人物なのでは、という気がしてきた。

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