『ちむどんどん』トラブル続き? 波瀾万丈なアッラ・フォンターナの歴史を振り返ってみる
『ちむどんどん』(NHK総合)の現在のメイン舞台となっている「アッラ・フォンターナ」は何かと話題に事欠かない。客が客を殴ったり、厨房ではスタッフが突然辞職したり。三郎(片岡鶴太郎)曰く、このあたりの洋食屋としては最高店と謳われるフォンターナの歴史を今一度振り返ってみたい。
まず、フォンターナは銀座の名店として認知されており、早苗(高田夏帆)と暢子(黒島結菜)が初来店した時も雑誌に載っていたのが思い出される。創業オーナーである房子(原田美枝子)の経歴も第67話で少し明らかになった。17歳のときから屋台の飲み屋を始め、そこから日本食、洋食となったが空襲が始まってしまう。その後、闇市でおでん屋を始め、暢子の父・賢三(大森南朋)と出会う。その後、手掛けていたという蕎麦屋も彼とやっていたのかもしれない。そして大衆食堂、飲み屋と鞍替えした後、三十代半ばの房子は在イタリア日本大使館で給仕をすることに。その時に食べたイタリア料理の味が忘れられず、北イタリア地方を中心に三年ほど修行をしてきた房子。彼女が帰国後、創業したのが「アッラ・フォンターナ」なのである。
闇市でおでん屋をやっていたのが1946年頃のこと。房子が以前妹の話を暢子にした際に、その頃の自分が暢子と同じ年恰好だったと話していたことから、おそらくおでん屋時代の房子は20歳前後。そう考えると彼女は終戦から十数年でイタリアに行っていることになるため、1926年頃の生まれ、フォンターナ創業は1960年頃になるわけだ。二ツ橋(高嶋政伸)が勇気を出して房子に告白をしたのが1966年のこと。このとき、「長年苦楽をともにして」と二ツ橋が話していたことから、フォンターナ以前から彼らが知り合いである可能性が高まり、房子の戦前の経歴の“洋食屋”で、2人はもしかしたら出会っていたのかもしれない。フォンターナと房子オーナーの歴史は、いまだ謎が多いままだ。
1965年に一度二ツ橋が独立しようと店を出ているが、すぐにまた戻ってきている。そして1972年5月、暢子が入店。フォンターナで働くには、試験を2つパスしなければならない。まずは10分でサラダを作ること。使っていい調味料は胡椒と塩とオリーブオイル。それがクリアできたら、今度はイタリア料理に限らず自分の得意な一皿を作ることだ。制限時間は1時間、材料はキッチンにあるもの。これにクリアすれば、晴れてあなたもフォンターナの一員。
暢子が入店した頃には矢作(井之脇海)などがすでに先輩として働いていた。そして1973年に母親を亡くした西郷親子(高木渉、新井美羽)がポルチーニ・リゾットを娘の誕生日に食べにきていた。1974年、暢子がフォンターナで修行を始めて1年半の頃には前菜を担当することになり、1976年には二ツ橋の性格が荒れ、再び店を辞めようとする。この頃、暢子は「ストーブ前」に挑戦する。そして1977年、二ツ橋が両足を骨折したことで暢子がシェフ代行をすることになるが、矢作らと喧嘩をし、店は大混乱。その最中、和彦(宮沢氷魚)が上司を殴るなどの事件も発生。それだけでなく、賢秀(竜星涼)が一目惚れをした多田直美(安野澄)に良い格好をしようとフォンターナに招待するが、会社の人を連れてきた挙句、社長と結婚することを知ると店で一番値段の高いワインを何本も無賃で飲み干す。1977年のフォンターナはかなり荒れ、まさに暗黒期と言っても良いだろう。