『ジャングル・クルーズ』の“現代の映画”としてのスリリングさ 作品に反映された思想を解説

 近年、実写映画化企画が立て続いているウォルト・ディズニー・ピクチャーズ。その作品の中には、世界中のディズニーのパークで稼働している老舗アトラクションを映画化した『カントリー・ベアーズ』(2002年)、『ホーンテッドマンション』(2003年)、予想を超えた大ヒットを記録して続編が製作された『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ、そしてパークのエリアをテーマとした『トゥモローランド』(2015年)など、アトラクション原作映画のラインナップも存在する。

 その系譜に新たに書き加えられる作品として、同じく老舗アトラクションである「ジャングルクルーズ」に今回、白羽の矢が立てられ、冒険映画『ジャングル・クルーズ』として、新たな息吹きが吹き込まれることになったのは、ある意味で自然な流れといえよう。ここでは、そんな『ジャングル・クルーズ』が、どう描かれているのか、そしてそこにはどのような思想が反映されているのかを、できるだけ深く考えてみたい。

 アトラクション「ジャングルクルーズ」は、熱帯雨林とワイルドな動物たちが生息する川の風景を人工的に作りあげ、周遊ボートで巡っていくといった内容で機械仕掛けの自然や動物たちが、リアルな冒険の雰囲気を盛り上げてくれる。名物は、“船長”と呼ばれる、各ボートに乗り込んだガイドたちが語ってくれる、信用できないホラ豆知識や、語呂合わせなどのジョークだ。これもまた、アトラクションが長らく愛されている理由となっている。

 本作で船長の役を演じているのが、いまやハリウッドのトップスターであり、このアトラクションのファンでもあるという、ドウェイン・ジョンソンである。それにしても、こんなに体格のいい「ジャングルクルーズ」の船長が、これまでにいただろうか……。

 舞台は、1916年のアマゾン。ジョンソン演じる船長フランクは、アトラクションの内容同様に観光客をボートに乗せ、ナンセンスなジョークを連発したり、あらかじめ仕込んでいた仕掛けによって、観光客に冒険している気分を体験させている。そのスムーズな流れは、まさに提供する側がルーティンワークとして完成した「ジャングルクルーズ」を想起させるものだ。

 アトラクションの「ジャングルクルーズ」は、南米やアフリカ、アジアの熱帯雨林気候の地域をミックスした、実際にはあり得ない生態系、文化をとり入れた内容。劇中で観光客の子どもが「でも、アマゾンにカバはいないでしょ?」と指摘しているのは、その非現実的な演出への自虐的なユーモアである。

 今年に入って、アメリカのパークでは、そんな「ジャングルクルーズ」を、大きく改変することが発表されている。それは、アトラクションの中で描かれる、ジャングルの先住民の暮らしや文化を見世物として楽しむような趣向が、人権意識に欠ける部分があると指摘されているからである。

 なぜ、これが問題なのか。それは16世紀以降のヨーロッパで、アフリカの人々に日々の生活を再現させ、それを外側から白人たちが眺めるという趣向の「人間動物園」と呼ばれる、人権に反する展示形態に似ている部分があるからだ。これは、1878年と1889年におけるパリ万博の呼び物ともなっていて、ミッシェル・オスロ監督の『ディリリとパリの時間旅行』(2018年)でも、当時のヨーロッパの白人たちの傲慢でグロテスクな意識の象徴として、批判的に描かれている。

 『ディリリとパリの時間旅行』の主人公ディリリが、そんな「人間動物園」で金銭を稼いでいたのと同様、アフリカの一部地域では、ある部族の一部が観光業に従事し、外国からきた人々に伝統的な暮らしをしている様子を見せることで報酬を得るビジネスが、古くから行われている。このように人間の暮らし、文化そのものをカリカチュアライズして、“ヤラセ”として娯楽化する試みが、「ジャングルクルーズ」にも一部受け継がれているのは否定しようがないだろう。

 このような趣向に対して「昔に作られたものなのだから仕方がない」という意見もある。しかし、100年以上前のパリ万博の時点で、この種の問題点はすでに指摘されているのだ。アトラクション「ジャングルクルーズ」の内容変更は、多様性や人権を重んじる現在のディズニーが、アフリカ系アメリカ人をステレオタイプに描いた映画『南部の唄』(1946年)の公開を差し止めたのと同様、ウォルト・ディズニーの過去の業績における問題点を修正する試みなのだ。

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