『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』にみる“続編映画”の問題点 本当の勝負は3作目?

 音を立てただけで、巨大な怪物が猛スピードで襲ってくる……。そんな緊迫感に溢れた世界を描き、背筋を凍らせるサスペンス体験と新鮮な驚きを提供することになった映画『クワイエット・プレイス』(2018年)。その内容が話題となり、好評を受けて製作された続編が、本作『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』である。

 予想外の成功を収めた前作同様、その内容は熾烈なサバイバルと家族の愛情と生きるための力強さをエモーショナルに描く、ダークな味わいの娯楽作品として、アメリカを中心にさらなる高評価を受けている。その一方で、本作はシリーズ化企画における一つの課題を露呈している一作でもある。ここでは、本作の内容を振り返りながら、“続編映画”の問題について考えていきたい。

 前作が多くの観客に驚きを与えたのは、現代の劇映画として、異例なほどにセリフが少なく、またサスペンスやアクションが詰め込まれている内容なのにもかかわらず、効果音が絞られた静かなシーンが多いという“新しさ”だった。前作公開の2年前に話題を集めた『ドント・ブリーズ』(2016年)も、同様に音を立てないようにしてピンチを切り抜けるサスペンスを主軸に置いていたが、『クワイエット・プレイス』は、より多くの予算を投じた作品でありながら、ほぼ全編で極限状態を持続させ、実験的と言えるまでに静寂を徹底したところが特徴的だったといえる。

 とはいえ作品の規模としては、『クワイエット・プレイス』も、それほど大きなものではなかったといえる。描かれたのは、人間を襲う怪物がやってきてから1年以上が経過した世界であり、すでに人類の文明が崩壊しつつある光景だ。このように、人がまばらな状況を設定するのは、映画製作においては予算を絞るための常套手段でもある。

 だが続編となった本作は、製作費が3倍以上の約60億円規模の企画となり、ハリウッドの基準では“超大作”とは言えないながらも、大幅に表現の自由度は増している。それによって描き得たものは、本作の冒頭のシークエンスである、主人公となるアボット一家が住む町を舞台に、怪物が逃げ惑う群衆を襲いまくる、悲劇の1日目“DAY-1”の場面に顕著に表れている。ここでは、子どもたちの野球の試合を家族が応援するといった平和な日常の世界から、怪物が人間を襲う地獄へと変化する光景が、スケールアップによって一大スペクタクルとして表現される。

 なかでも、エミリー・ブラント演じる一家の母親エヴリンが、怪物の襲撃を受けて暴走するバスの突進を避けるため、自身の運転する乗用車のギアをバックに入れて道路を逆行していくシーンはエキサイティングだ。家族の命を守るために、エヴリンは非情なガンシューターにも、決死の凄腕ドライバーになることもできる。そしてそれは、本作の監督を務めているジョン・クラシンスキーが演じる、一家の父親リーも同じことだ。このリーの活躍を再び描くことができるという意味でも、“DAY-1”の場面は見せ場となっている。クラシンスキー監督は、現実でも主演のエミリー・ブラントのパートナーであるため、二人の共演者としてのつながり、演出者と俳優としてのつながりは、演技を超えたものに見える。

 さらに“DAY-1”の一場面では、本作で一家が頼ることになる、キリアン・マーフィーが演じる男性エメットも登場している。ここでの交流は、劇中での危機を脱するヒントが含まれているなど、物語の筋こそ前作と大差はないが、スペクタクルシーン以外にも、脚本上の細かな工夫によって、本作の娯楽性は担保されている。

 さらに注目すべきは、大幅なスケールアップを果たしながらも、この豪華といえるシークエンスに続く本編は、あくまで前作と同じく、1年以上経った後の世界であるということだ。朽ちた列車やマリーナなど、舞台は比較的大掛かりになってはいるものの、基本的には前作とそれほど変わりない、家族が怪物から身を隠し、ときにはやむを得ず戦うことで、ひたすら生き延びようとするといった内容のサスペンスアクションが繰り広げられるのである。

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