『ひよっこ』はなぜ愛されたのか “欲望”を過剰にしなかった昭和のもう一つの物語

 現在夕方に再放送されている“朝ドラ”『ひよっこ』(NHK総合)を観るとほっとする。2017年に放送された作品で、ヒロインがあんまり成長しないーー肉体的にも精神的にもーーが売りになっていた。

 “あさドラ”の多くは波乱万丈な女性の半世紀ものとして、視聴者が憧れる立派な職業につき、子供を生み育てた晩年まで描かれることも多いが、『ひよっこ』はヒロイン・みね子(有村架純)が高校を出て故郷·茨城から東京に出稼ぎに行った数年間の物語で、東京でいろいろな人と出会ってそれなりに社会に揉まれていくとはいえ、何か特別な職業に就こうという思いには至らない。

 恋をして結婚もするが、結婚生活は描かれないままドラマは終了する。先日終了した『スカーレット』も結婚式や葬式や人生における大きな出来事の多くを描かず、登場人物の個性を重視したうえで日々の暮らしを細やかに描いたドラマであったが、『ひよっこ』はそれに先駆けていた。以下、多少ネタバレも含むが、『ひよっこ』がなぜ愛されたか振り返ってみる。

 放送初期、高い評価を獲得したのは、休みの日、みね子が実家に帰り家族で田植えをするエピソード。ちょうど土曜日に放送され、視聴者の実生活とも連動し、土曜日の安らぎ気分を増幅してくれた。土曜日は視聴率が下がると言われている朝ドラには珍しく土曜日の視聴率が高いという不思議な逆転現象も起きた。最初の頃は、平日の視聴率がさほど高くはなかったが、回を増すごとに注目され、終盤は盛り上がった。最初はもどかしかったものが、だんだん注目されて応援が増えて、最後はハッピーエンドでお別れするという流れはとても理想的だと思う。

 なぜ、『ひよっこ』支持者が増えていったか。やはりそれは、みね子の無垢さと、周囲の人たちの善意であろう。『ひよっこ』には悪い人がまったく出てこなかった。唯一の悪人は、みね子の父・実(沢村一樹)を乱暴してお金を盗んだ人物ぐらいではないだろうか。それ以外の人はひたすら善意の人、かつ、生き急がない人たちだった。時代は高度成長期。昭和40年代、東京オリンピックに向かって日本が張り切っていた時代。ビートルズが来て文化も盛り上がり、世の男たちはばりばり働いていて、女性も男性に負けずに活躍しようという気運も高まっていた。そういう時代をエネルギッシュに駆け抜けていく人々として描くこともできたであろうが、『ひよっこ』はそうしなかった。

 茨城の家族と幼なじみ、東京の最初の勤務先・向島電機の仲間たち、赤坂の食堂すずふり亭の人たち、下宿先あかね荘の住人たち、誰も彼もが気のいい人たち。お互いを思いやり、尊重し、過度に自己主張しないでのんびり生きている。出稼ぎに出たまま行方不明になったお父さんを助けて一緒に暮らしていた人気女優・世津子(菅野美穂)との関係もいたって良好なものとなった。愛憎の「憎」が皆無。ドロドロしない無菌の世界。国家権力である警官・綿引(竜星涼)と、どちらかというと反体制の青年・高島(井之脇海)がなぜか仲良くなってラーメンを食べる場面もあった。これも別に右だの左だの思想をぶつけ合うわけではない。ただふたりが仲良く並んでラーメンを食べるだけ。しかも、高島が綿引におごってもらうばかり。それだけでなにもいらない。十分、満たされた気持ちになった。

 ふつうに考えたら、娘と、父と暮らしている女優、思想の違う者たちは、そんなに簡単に歩み寄れない。なんの遺恨もないなんてそんなの偽善っぽいと思われそうなものだが、なぜか『ひよっこ』はそうなのだ。なぜだろう。この世界は、もしもあの高度成長期に欲望を過剰にしなかったら、というシミュレーションというか、“願い”を描いたものだったのではないだろうか。

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