伊藤健太郎×玉城ティナ『惡の華』は誰もが共感できる“青春映画”に 浮かび上がる名作との共通項

 ここで、ボードレールの『惡の華』の冒頭、読者にあてて記されている“序詩”の一部を紹介したい。

「殊に意地ぎたなく、腹黒く、不衛生な怪物が一匹。
目に立つほどの身振りはせず、大げさに吼えることもしないそいつが、ついその気になれば、地球は瓦礫の山になるかも知れぬ。
そいつが大きな生あくびをひとつすれば、宇宙も丸呑みされてしまうかも知れぬ。
それ、それが倦怠というやつ。長い煙管(きせる)をくゆらし、麻薬にうるんだ目をして、死罪に相当することをあれこれ、いつまでも空想だけしているやつ」(杉本秀太郎訳)

 ここに書かれた“倦怠”と名付けられた怪物は、教室の隅で退屈に耐えながら、頭の中で不道徳な妄想をして楽しむ、春日のような人物ではないのか。ボードレールはここで読者に、この感覚を共有できる“自分たちこそが宇宙を丸呑みするほどに最強な存在なのだ”と語りかけてくれる。さえない地方都市の中学校の教室で、教師に従順で勤勉な生徒たちだけが評価されるような環境に不満を感じている者にとって、それは救いの光であり、パンクロック的に既存の価値観をひっくり返す生き方を提示する“精神的革命”である。

 さて、「青春映画」とは何なのだろうか。その答えは人によって様々だろうが、筆者が考えるそれは、様々な制約のなかで“損得勘定”や大人の常識に縛られない行動をすることを選び取る主人公を描いた作品のことである。だから、年をとった主人公でも、純粋な気持ちで生きている姿を映し出すことができれば、それは青春映画だし、学生の主人公を描いたとしても、損得勘定や常識に従う生き方を描くような作品は、青春映画とは呼べないだろう。

 本作で誰からも好かれるような優等生・佐伯奈々子(秋田汐梨)と交際することになる春日だが、同時に彼は、玉城ティナ演じる、教師を「クソムシ」とののしり、学校内で不気味がられている仲村佐和が気になって仕方がない。破滅的な狂気を持った仲村とつるんでいるよりも、佐伯と付き合って地元で結婚し、安定した仕事と家庭を持つことを目指すのが、理性的で建設的な判断であろう。だがそれは、ボードレールの『惡の華』に圧倒的高揚を感じ続ける自分を捨て去り、自分自身が見下している“普通の人々”に同化していってしまうことを意味する。本作は、「特別でいたい」と願いながら、周囲の環境に揺れる心の葛藤が、複数の女性のかたちで現れるのである。

 本作で描かれる三角関係のモチーフと進路の問題は、同じく漫画原作の青春映画『翔んだカップル』(1980年)を想起させる部分がある。本作『惡の華』の監督・井口昇は、このように語っている。「『惡の華』は、大好きな『翔んだカップル』の鶴見辰吾さんに出演して頂き光栄でした。個人的裏ネタでは、鶴見さんのシーン直後の、健太郎さんが廊下を歩くカットは『翔んだカップル』ラストシーンのオマージュのつもりなんですよ!」

 『翔んだカップル』は、相米慎二監督のデビュー作である。“ちょっとエッチな”学生時代のドキドキを題材にしながら、その映像世界は衝撃的なまでにみずみずしく美しい。本作もまた、同級生の体操服にドキドキし、思わず自宅に持ち帰ってしまうという、サイテーな行為からスタートし、自意識をめぐる壮大なテーマへと接続していく。

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