高橋ヨシキ「過剰な狂気ーーマイケル・ベイ映画の世界」第3回

マイケル・ベイ作品は本当に女性蔑視と言えるのか? “カーウォッシュ”シーンに込められた意図

ベイがカーウォッシュを描いた意図は?

 最終的に『トランスフォーマー』の当該場面は「カーウォッシュ」ではなく「エンジンを覗き込むミカエラ」という形になったわけだが、「カーウォッシュ(洗車)」がセックスのメタファーとして用いられるようになった起源は『暴力脱獄』(1967年)にある。

『暴力脱獄』の「カーウォッシュ」場面

 こうした、いわゆる「セクシー・カーウォッシュ」は「バイクと美女(「モーターサイクル・チック」と通称される)」、「銃と女(「チックス・ウィズ・ガンズ」)」などと並ぶ、きわめてアメリカ的なセックスのメタファー的表現であり、現在では本来の意味合いを残しつつも、あまりにも陳腐なクリシェ的な表現として、いわばギャグの一種として用いられることも多い情景である。

『ワイルドシングス』(98年)のカーウォッシュ
『チアーズ!』(00年)のカーウォッシュ
『チャーリーズ・エンジェル:フルスロットル』(03年)のカーウォッシュ
『バッド・ティーチャー』(11年)のカーウォッシュ

 マイケル・ベイの自宅で撮影されたというミーガン・フォックスの「カー・ウォッシュ」テスト映像が実在するのかどうかは分からない。ミーガンによれば、「マイケル・ベイに『あのテープはどこにやったの?』と聞いたら、彼は恥ずかしそうに『いや、ぼくもテープの行方は分からないんだ』」と言っていたそうだが、ことの真相はともかく、マイケル・ベイが『トランスフォーマー』の当該場面を「セクシー・カー・ウォッシュ」の伝統に則ったグラマラスでセクシーなシーンとして構想し、実現したことは間違いない。しかし、それをもって『トランスフォーマー』が「女性をオブジェクティファイしてはばからない、女性蔑視の作品」と断じるのはいささか性急にすぎる……のかもしれない。先に挙げた『Michael F-ing Bay』は、これについて「このシーンで、カメラは客観的な視点というよりはサムの主観を代弁するものとして機能している。スピルバーグが『トランスフォーマー』の指針として打ち出した『ティーンエイジャーの目を通して語られる物語』というコンセプトが実現されているのだ。ここで映っているミーガン・フォックスは、ミカエラというキャラクターの外見を反映しているわけではない。それはホルモン過多のティーンエイジャーの少年サムの目を通して見た、理想化されたガールフレンドの姿なのだ。彼女の衣装もポージングも、現実を反映しているのではなく、サムの妄想を反映しているに過ぎない」と指摘している。

 この説には一定の説得力がある。マイケル・ベイはもともと異常に「理想化された」ギラギラのグラマラスでセクシーな世界をCMで描き続けてきた作家だからだ。

第1回:天才監督マイケル・ベイの“美”を求めてーー正気の『バンブルビー』と狂気の『トランスフォーマー』

第2回:マイケル・ベイ映画の“ギラギラ至上主義”ーー大失敗の『アイランド』とスピルバーグからの打診

■高橋ヨシキ
1969年生まれ。映画ライター/デザイナー/チャーチ・オブ・サタン公認サタニスト。雑誌『映画秘宝』でアートディレクター、ライターを務める他、映画ポスター及びDVDのジャケットデザイン、翻訳、脚本など多彩なフィールドで活躍している。

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