【ネタバレあり】善悪が無効化されたヒーロー映画『ミスター・ガラス』を徹底考察
狂気の世界をさまよう異能者たち
ヒーローにおける狂気の問題は、既存のいくつかの作品のなかでもすでに指摘されている。例えば、コミック『バットマン:アーカム・アサイラム』は、精神に異常をきたした囚人を収容する施設が舞台だ。そこにはジョーカーをはじめ、狂気のヴィランたちがバットマンを待ち構える。そこでバットマン自身も、いつしか狂気の世界に迷い込んでいくことになる。また、クリストファー・ノーラン監督の映画『ダークナイト』も、バットマンがジョーカーの狂気に満ちた行動に引きずられ、倫理観を逸脱し違法な捜査をしてしまう作品だ。
『バットマン』シリーズに登場するヴィランたちが狂った者として描かれるように、彼らと戦うためコウモリのような格好をして、夜な夜な街に繰り出すバットマンもまた、狂気に足を踏み入れる存在だというのが、それらの作品の提示する恐怖だ。これは、他の多くのヒーロー作品の裏でも、絶えず不気味にうごめいていた潜在的問題だともいえよう。
だからノーラン監督による『ダークナイト』の側面を突き詰めれば、最終的には精神鑑定にまで行き着くのかもしれない。私自身、そういう作品が制作されれば面白いと夢想することがあった。しかし、そんな企画を思いついたとしても、いま実際に映画化することは難しいだろう。本作は、シャマラン監督が創造したヒーローを使用し、それを実現させてしまった作品なのだ。
シャマラン監督は『スプリット』において、用意周到に多重人格のヴィランを創造している。“群れ”を演じるジェームズ・マカヴォイの達者な演技は素晴らしかったが、このキャラクター設定は、シリーズの世界観と精神病とのつながりをスムーズにつなぐための布石でもあったはずである。
ヒーロー作品は“自作自演”?
シャマランは、彼ら3人に共通点を持たせた。それは幼少時につらい経験をして、心に深い傷を負っているという事実である。“群れ”に至っては、苦痛を与えられてこなかった人間は「不純」だとすら語っていた。これによって、彼らが自分に突出した能力があると思っているのは、その痛みから逃避するためだ、という、医師の指摘する可能性は、説得力を帯びてくる。
本作で、ヒーローとヴィランが同種のものとして扱われているように、その他大勢の市民とは異なるという意味において、彼らは互いに近しい存在として描かれている。そしてそれは、ヒーローを題材としたコミックの多くが宿命的に持っている問題だといえる。
ヒーロー世界の創造主たるコミック・アーティストや映画の脚本家の立場からすると、災害や事故に遭った人をただヒーローが助けているような内容だけでは、人気作にはなりづらいと考えるはずだ。インパクトのある悪役のいない世界の、スーパーマンやバットマンの異様さを想像してみてほしい。ここでは強大な力を持った悪が存在するからこそ、ヒーローの活躍がより際立ち、存在価値を持つのだ。つまり、ヒーローを創造するためには、悪を生み出さなければならない。彼らは相互に依存する関係にある。本作は、そのような「自作自演」の構造を暴いてしまう作品でもある。ちなみに映画では、『レゴバットマン ザ・ムービー』が、すでにその問題を扱っていた。
ミスター・ガラスは、少しの衝撃でも骨折してしまう身体を持って生まれた。苦痛に耐え絶望のなかにいた彼は、コミックの世界に救いを見いだした。そして、自分が他人より弱い身体で生まれたのは、逆に他人より強い身体を持ったスーパー・ヒーローがいるかもしれないと考えた。もしそれが真実だとするなら、自分には生まれてきた意味がある。いや、多くの一般の市民よりもはるかに重大な存在だったのだと思うことができる。彼は、それに賭けたのだ。
世界を決定的に変える人間は、ある意味で狂信者に見えるものである。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたことで、宗教裁判にかけられたように、いままでの常識から外れる考え方は、多くの人間に排除されることが少なくない。いまでは人類史における最も大きな罪の一つだと見られている、アメリカの黒人奴隷制度にしても、それが実施運用されていた当時のアメリカで、「こんなことは犯罪だ!」とわめいてみたところで、大勢の“普通の”人々によって、頭のおかしい人物だと決めつけられてしまうだろう。
自分が狂ってるのではない。世界の全てが間違っている。精神病院は、むしろ病院の外側全てなのだ。ミスター・ガラスはそう信じ、院内で名を訊ねられると、「名前はミスター、姓はガラス」と、威厳を持って答える。このとき、本作はやはりミスター・ガラスのための映画だということが分かるのだ。