続編でもブレない突き抜け方 『キングスマン』シリーズが示す、“現代の紳士の精神”
『007』シリーズや『ミッション・インポッシブル』シリーズ、『コードネーム U.N.C.L.E.(0011ナポレオン・ソロ)』…「スパイ映画の当たり年」だった2015年は、これら往年のスパイ作品の新作、リメイク作が次々に公開された。そのなかで、マシュー・ヴォーン監督の『キングスマン』は、監督自身がもともと映画企画として考案したアイディアをコミックにした原作を映画化したもので、ほぼオリジナル作品ながら、これら強力なブランドを掲げたタイトルたちと並ぶ健闘を見せ、意外な展開と、カリカチュアライズされた英国紳士風スパイのキャラクターによって、あまつさえ最も強いインパクトを多くの観客に残したといっていいだろう。
続編となる本作『キングスマン:ゴールデン・サークル』は、前作に続いて豪華キャストを配し、全体にまき散らされたユーモア、エロ・グロ含む過激な描写や、イギリスとアメリカの文化のせめぎ合いが引き続き表現された、興味深い作品になっていた。ここでは本作が描いたものを、できるだけ掘り下げて考察していきたい。
『キングスマン』は、作中で語られた会話の内容や、演出によって示されていたように、『007 スカイフォール』に代表されるシリアスな路線ではなく、お気楽な楽しさがある往年の「007映画」に立ち返ってスパイ映画を作ろうとするコンセプトを持っている。最も荒唐無稽だった、ロジャー・ムーアがジェームズ・ボンドを演じていた時期のシリーズに、1967年の「007」パロディー作品『007 カジノロワイヤル』におけるエログロ・ナンセンスな雰囲気、そこに人種差別問題や格差問題などの現代的エッセンスをも加えている。
1作目で描かれた、イギリスの行進曲「威風堂々」が流れるなか、人々が次々に印象的な死に方をしていく過激シーン。じつは本作『ゴールデン・サークル』には、この不謹慎ギャグへのエクスキューズとみられる描写がある。前作でスパイ組織キングスマンのメンバーとして世界を救ったエグジー(タロン・エガートン)は、仲間たちと前回の戦いをおさらいする際に、この「威風堂々」の場面を見直し、「これは面白かったよね」と同意を促して白い目で見られるのだ。
さらに前作では、悪の組織に捕まっていたスウェーデンの王女を助け出すと、王女が「ご褒美」と称して自分の身体を差し出すという、これもまた不謹慎な場面があった。007シリーズでは、ジェームズ・ボンドが行きずりの女性と、その場だけの関係を持つことがお約束となっているが、続編となる本作ではなんと、王女がエグジーと、その後もずっと交際を続けていたことが明らかになる。
本作では、任務のために敵の恋人である女性を口説いてベッドに誘う展開になっても、エグジーはいちいち王女に電話して「いまから任務で浮気するけど、いいか」と許可を求める。誠実なのか何なのか分からないような行動だが、この不器用な真面目さ、そしてエクスキューズを差しはさむというのは、自分のマッチョな行動を基本的に「反省しない」ジェームズ・ボンドとは異なり、時代に即したヒーロー像だということも印象付けられている。その姿勢が象徴するように本作は、やりたい放題だった前作ほどの突き抜けた過激さには欠けているかもしれない。しかし反省しているように見せかけて、そのベッドシーンでは前作同様に不謹慎なシーンが体験できるので、過激描写に期待するファンは一安心である。
イギリスには貴族と平民に分けられた、いまだ旧弊な階級社会が存在する。貴族の本来の役目は、王、または女王を補佐し、守ることにある。ジェームズ・ボンドも愛用する、サヴィル・ロウに並ぶ高級紳士服店のテーラード・スーツに身を包んだ、本シリーズの英国紳士スパイ「キングスマン」は、その貴族精神がコミカルに実体化されている。イギリスに英国精神の象徴たる「キングスマン」がいるのなら、アメリカにも米国精神を象徴する存在がいるだろうと、本作で新たなアメリカ(ユナイテッド・ステイツ)のスパイ組織として登場するのが、「ステイツマン」である。このあり得ないほどの単純な発想がすごい。