菊地成孔×モルモット吉田、“映画批評の今”を語る 「芸で楽しませてくれる映画評は少ない」
菊地「民意は第一接触では概ね間違っているもの」
吉田:『キネマ旬報』にしても70年代は読者の9割が10代と20代だったようですが、今は読者も高齢化しています。ウェブだと若い人でも評論を読んで、自分でも映画を論じようとするという意味では、面白い状況だと思います。
菊地:素人に語らせる道具ですからね、SNSは。それ以上でも以下でもない。僕はSNSをやらないから、まるでエコロジストみたいに公式ウェブサイトのファンメールボックスしか意見を頂けるところがない。僕に届かせようとするとそこにメールを送るしかないんです。でも今は、直接メールなんか来ないですよね(笑)。
吉田:SNSの手軽さに慣れてしまうと、メールを書いて送るのは敷居が高くなるんですかね。
菊地:直接、本人に送るなんて誰もしない。コメント欄に書き込めばいいので。
吉田:ああいう論争を紙媒体でやるのは、今はもう無理だろうなと。
菊地:紙だと、ゆっくり進みますからね。僕らの世代だと、有名な吉本×埴谷論争とか、他にもいろいろありますけど、論争を紙でやっていた。今は何故か映画に関しては紙媒体は読まないですね。『キネマ旬報』で連載していた時期も、掲載誌として頂くんですが、読んでませんでした。映画雑誌で読んでいたのは『映画秘宝』が小さかった頃までですね。かといってSNSやコメント欄も読まないから、結局なんにも読まないんですけど(笑)。
吉田:どうしてですか?
菊地:本当はSNSも読みたいんですよ。傾聴に値するものだけ集めて送ってくれれば。でも、そんなこと言ってる奴はSNS芯が食えてないんでしょうね。頑張って見ていけば、見慣れてきて感覚も変わってくるのかもしれないですが、自分に矢面が向かってくるとイライラするばかりだし、人のものを見ていてもバイブスが良くなくて、結局全くやらないっていう態度を取ってしまっているので、基本的には全方位的にアンチSNSですね。人体実験しています。SNSもやらない奴の本はつまらないか?という(笑)。
とはいえ、理念やイズムと日常的な行為に齟齬が出るとはよくある話でして。雑誌を読まなくなっていることは確かだし、僕は新宿に住んでいるからあらゆるシネコンに歩いて行けるのだけど、映画を見るときに、やはり星の数とかつい見ちゃったりもしているんで(笑)、結局、ちょいちょい使ってるんですよね。「忸怩たる」とまでは言わないですけど、理念と構造にコンフリクトは出ているかと。
別にヨイショするわけではありませんが、モルモット吉田さんの『映画評論・入門!』を読んだときは、久しぶりに映画の本をちゃんと読んだなと思いました。映画評論っていうのはこういう風にすればまだ活字として生きる道があって、読むべきものと、書くべき人がいる、ということが肉薄してきたというか。久しぶりに一気読みしました。
吉田:ありがとうございます。山田宏一さんの映画評論に影響されて犯罪を起こした女性の話を入れたりしたせいで、シネフィルの方から内容が不真面目だと言われたりしましたが。
菊地:そうなんですか。すごくまじめな本だと思いますけどね。極端に言うと、戯画的なまでに誠実というか。そういうポジションできっちりやる、”映画評論・論”ですよね。
吉田:最初は映画評論のハウツー本的なものを求められていたんですが、最終的にかなり趣味的な日本の映画評論をめぐるエピソードをかき集めた内容になってしまいましたが。
菊地:そこが格段に面白いです、こんなことがあったのかっていう。本を読んで新しい事実を知って新鮮に驚くっていう体験を久しぶりにしました(笑)。
吉田:先ほどのSNSの話に戻りますが、蓮實さんや町山さんのように非常に影響力のある人がいると、SNSやウェブの映画評論も、酷似したものが増えますね。自由に書ける場なのにコピー文体ばかりになってしまう。そのあたりはどうお考えですか。
菊地:例えば音楽は、コピーしたくなるバンドはいいバンドなんですよね。音楽の内容は別として。フォロワーやなりきりみたいなのが量産されるバンドは良いバンドです。でも、今はサンプリングできちゃう。音楽のコピーが、単にスキルとして簡単になったんですよ。だから、崇拝して同一化して、、、という情熱が若干落ちちゃって、ネタ、とか、リスペクト、とか(笑)その程度にとどまるわけですが、文章はそこがまだまだ熱くて、町山さんそっくりに書く人もいるし、蓮實先生そっくりに書く人もまだいるし、あのう、僕の、一番好きな映画の本は『お楽しみはこれからだ』なんですけど。
吉田:和田誠さんの。
菊地:そうです。軽く好きなように書いてるんだけど、趣味がいいっていう。ああいった感じになれないかなって思うんですけど、自分が書くとそうはいかないですね(笑)。いずれにせよ、カリスマがいて、文体が似るというのはどの業界にもあることですよね。
『映画評論・入門!』の読みどころの一つですが、僕も違う本でやってるんですけど、「いま”名盤”って呼ばれている盤は、リリースされた頃に評論家から何と言われていたのか?」って調べると面白いんですよね。後から修正されていって、磨かれて、今の評価に落ち着くんだけど。インターネット以降、みんな「賛否はあるが、すでに正解は出てるんだ」って思ってるんじゃないかと思うんですけど。そんなヌエみたいな話はないわけで、やっぱり民意は偏りますよね、そして民意は第一接触では概ね間違っているもので、民意が完全に賢者の位置にいる状態っていうのは危険な状態ですよ。そのことがゆっくり時間をかけて転覆したりしていくっていうのが面白いわけ。そのことも書いているから、『映画評論・入門!』は素晴らしいなぁと思いました。
吉田:『欧米休憩タイム』の中で、例えば『アズミ・ハルコは行方不明』は僕も観ていたのですが、これについて書けと言われても、何も言いたくないほど酷いなと思ったんです。菊地さんは作品の根源的な欠点も的確に指摘しつつ、山内マリコさんへのディスりも入れながら話を広げていくのは、これはもう真似のできない芸だなと思って読んでいました。
菊地:そうですね。作品は編集部から決められているから、書かなきゃいけなくて。山内マリコさんとは対談した経験があるから、こういう自分の足を使って手に入れた素材は大切にしようと(笑)思った上で、ブローアップした感じです。要するに、山内マリコさんご自身が発している、魅力的な「どっちなんだ」感が、映画全域に悪く蔓延しちゃった。という視点の設定ですね。話芸としてやるしかないという。
吉田:逆に今、映画系の個人サイト、ブログなどを見ていても、話題作とか誰もが見るような映画、論じやすいものばかりを取り上げている印象があるんです。『アズミハルコは行方不明』みたいな作品はあまり取り上げない。取り上げても、解説とあらすじと、ちょっとしたレビューで見る前から分かりそうな欠点が書いてあってシステマティックすぎるなと。菊地さんが山内さんと対談した経験を引き寄せて書いたような芸で楽しませてくれる映画評は少ないですね。
菊地:僕は別にアンチシネコンじゃないんですけど、シネコンだと強度だけが問題になっちゃって、売れた作品から順に語られていくということに対する無慈悲さが容赦なくなっています。吉田さん相手に釈迦に説法ですが、昔はへそ曲がりの人とか、そこを何とかしようっていう人もいて、小林信彦らが敢えて日活の無国籍アクションを批評しようとか、ロマンポルノをしっかりやろうという動きもあったりしたんだけど、アニメ批評なんて最初期は色物でしたが、今や国是に近い強さをもってきて、要するに今”弱者は弱者”になってしまって。
この連載で助かったのは、どんなに弱い作品でもやらされるということでした。一方で、『UOMO』でも「売れてる映画は面白いか?」というタイトルで連載しているんですが、賞を獲った作品とか、売れていそうなものばっかり観るんです。それでも玉石混交になるんで、この本では「誰も見ないだろうな」っていう感じのものも書いていくということですよね。