黒沢清監督『予兆』はとびきりの“混合物”だーー相田冬二が『散歩する侵略者』からの飛躍を解説

 映画『散歩する侵略者』のスピンオフ。しかもWOWOWドラマ全5話をつないだもの、と聞けば、まがいものを想像するひとも少なくないかもしれない。だが、これはまがいものではない。アマルガム(混合物)である。それもとびきりの。矛盾した言い方になるが、純粋無垢なるアマルガム。わたしたちは、錬金術から純金が生まれる瞬間に遭遇することになる。

 ここ10年ほどの黒沢清作品のなかで、これは最良の作と呼んでいい。個人的には今年公開映画のなかでは間違いなくベストワンである。

 前川知大率いる劇団イキウメの舞台を映画化した『散歩する侵略者』は、黒沢の過去作品群が走馬灯のようにたちあらわれる、遺作を思わせる趣をたたえた一本だった。舞台版を観るとよくわかるのだが、人間の概念を奪う侵略者という基本設定は、『CURE』の萩原聖人を想起させる。侵略者の働きかけと、奪われた後の人間のたたずまいが『CURE』にリンクするのだ。加えて夫婦という主題。『CURE』から近作『岸辺の旅』『クリーピー 偽りの隣人』までと重なる、夫婦という密室状態が奇怪な出来事によって解放に向かう展開は、不可思議な安堵をもたらす。喪失と安らぎ。このふたつを軸に、『大いなる幻影』『カリスマ』『回路』といった重要作の幻影が細部に宿る。まさか、あの黒沢清がこのようなかたちで自身の歩みの総決算をするとは。驚くと同時に、一抹のさみしさをおぼえたのも事実である。

 ところが『散歩する侵略者』は遺作などではなかった。ステップボードにすぎなかった。『予兆 散歩する侵略者』という大いなる飛翔をものにするための発射台だった。つまり『散歩する侵略者』自体が、とんでもない「予兆」だったのである。

 『散歩する侵略者』は、黒沢清ならではの活劇性(恒松祐里の身体)と楽天性(長谷川博巳の姿勢)にも彩られていたが、『予兆』はぐっと陰鬱なムードで繰り広げられる。登場人物もガクンと減り、舞台も多岐にわたることはなくなり、限られた場所においてのみ物語られる。つまり、いわゆる「スケール」はダウンしている。だが、結果、焦点が絞られ、格段に味わい深いものになっている。


 主要なキャラクターは3人だけである。だが、たった3人だけで「社会」を描くことはできるし、その「社会」を通して「世界」を見渡すこともできる。『散歩』よりはるかに密室性が増している『予兆』は、最小の数で拡張する表現の可能性を示している。ひょっとしたら、このことこそ黒沢が演劇から見出した可能性なのではないか。演劇に対する映画からの返答という意味でも『予兆』はとても意義深い。

 妻がいる。夫がいる。侵略者がいる。侵略者は夫を「ガイド」(人間から概念を奪うための水先案内人のようなもの)に選ぶ。妻は夫を侵略者から守ろうとする。侵略者は妻に特殊な力があることを知る。侵略者は妻から概念も夫も奪うことができない。侵略者は感心する。そのような人間がいることに。やがてその感心は別な感覚に進化=変容していく。

 『予兆』は言ってみれば、ただそれだけの物語である。だが、ただそれだけなのに、まったく目が離せない。シチュエーション、アクション、そしてジャンプ。演劇はほぼこの3元素で構成されている。とりわけ舞台版『散歩する侵略者』にはそれが顕著だ。つまり「設定」から人物配置が定められ、人物たちはただひたすら「言動」を繰り広げ、そのことによって物語は大胆に「飛躍」することになる。

 このチェーンリアクションを戯曲、役者、観客の関係性に重ねあわせてもよい。黒沢は、妻がなぜ特殊な能力を有しているかをあえて考えなかった、なぜなら、演劇であればそんな理由など説明しなくても、物事は進行し、観客はそれを疑問に思わないからだとインタビューで語っている(「目の前のことに一生懸命になっている人、全身で反応する人を描きたい」―映画『予兆 散歩する侵略者 劇場版』夏帆&黒沢清監督インタビュー)。つまり、理由なく存在するのが「設定」なのだ。『予兆』は大胆不敵にも、映画本来の武器である「視覚効果」という娯楽に極力寄りかからずに(逆に言えば『散歩』は寄りかかりすぎていた)、きわめて魅惑的な抑制を施しながら、この3元素を際立たせていく。


 だれに肩入れするかで、この3元素は輝きを変える。妻を中心に眺めれば、夫を連れ去ろうとする「泥棒猫」との、女の意地をかけた闘いが、人類を救うかもしれない壮大な契機にも映るだろう。夫本位で堪能するなら、妻と侵略者、いずれも甲乙つけがたい魅惑を放つ存在に求められ、あっち行ったりこっち来たりする「引き裂かれた自己」に実存的な満足が得られるだろう。そう、これは痴話喧嘩が宇宙戦争と隣り合わせにあるSFであり、トライアングルラブにニヤニヤ顔でたゆたう哲学でもある。

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