宮台真司はなぜ映画批評を再開したのか? 『正義から享楽へ』刊行記念インタビュー

 社会学者・宮台真司がリアルサウンド映画部にて連載中の『宮台真司の月刊映画時評』を加筆・再構成し書籍化した映画批評集『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』が、2016年12月27日にリアルサウンド運営元・blueprintより刊行された。同書では、『シン・ゴジラ』『クリーピー 偽りの隣人』『バケモノの子』『ニュースの真相』など、2015年から2016年に公開された作品を中心に取り上げながら、いま世界に生じている変化などを紐解いている。さらに、黒沢清、富田克也&相沢虎之助との特別対談も収録。

 このたびリアルサウンド映画部では、著書の宮台真司にインタビューを行い、長らく中断していた映画批評再開の理由から、トランプ現象とリベラルへの見解についてまでをじっくりと語ってもらった。(編集部)

「僕が言う「実存批評」の出番だ、やっと言いたいことが言える」

――連載『宮台真司の月刊映画時評』を再構築した批評本『正義から享楽へー映画は近代の幻を暴くー』が、売り切れ続出の好評ぶりです。今回はあらためて、長らく中断していた映画批評を再開した背景と、そこにある問題意識について伺っていきたいと思います。

宮台:最初の映画体験と言えるものからお話しします。僕は小学校時代に転校だらけで6つの小学校に通ったので、転校するたびに周りがどんなノリなのか、どういうモードでコミュニケーションをしているのか分からなくて、しばしば途方に暮れました。麻布中学に進学したら中学高校紛争の真っ只中で、いきなりの学校封鎖。やはり何が起こっているのかチンプンカンプン。そんななか、中学2年のときに新宿の「アンダーグラウンド蠍座」という映画館で若松孝二と足立正生の映画を観ましたが、それが運命の分かれ道でした。

 最初に観たのは若松監督の『ゆけゆけ二度目の処女』(1969年)と『現代性犯罪絶叫篇 理由なき暴行』(1970年)。どちらにも衝撃を受け、「自分のことを一番わかってくれるのは若松と足立だけ」と感じました。以降、生活の場よりも映画のスクリーンを通じて、<社会>とは何か──「権力とは何か」「セックスとは何か」──何かを学んで「よく分からなさ」を克服する過程が続きました。僕にとって映画は、それがないと<社会>を見通せない「延長された身体器官」そのものでした。そんな経験が、映画の観方を方向づけました。

 転校先で「誰が何を考えているのか」が分からず、被害妄想的に脅えることを繰り返したので、自分と同じ状況にいる他人たちを見て「人が何をどう体験しているのか」を観察する癖がつきました。『正義から享楽へ』のあとがきに書いたように、自分以外の人々の<世界体験>──<世界>をどう感じながら生きているのか──が知りたくて堪らない。人間だけじゃなく犬の体験にも関心がありました。そのせいで僕は小さい頃から犬を犬扱いできず、犬好きでもないのに登下校時に犬がぞろぞろ僕についてきました。

 かくて<社会>を見るときに<実存>から見るという構えが形成され、中学入学時点で既に「<実存>が分からないと<社会>が分からない」という感覚になっていました。映画を観る際も、ストーリーでなく、差別される者の実存・差別する者の実存・女の実存・男の実存などに反応していました。「映画を通じて<社会>を見る」と言いましたが、「映画に描かれた<実存>を通じて<社会>を見る」のです。映画が描く権力や制度やそれらについてのメッセージに注目せず、専ら劇中人物の体験に注目する癖が強化されて、今に至ります。

――そして、約6年の中断を経て、映画批評を再開した理由とは。

宮台:本を読んでもらえればわかりますが、「人は書割の中の影絵に過ぎない」とか「人は妄想の中を<なりすまして>生きよ!」という僕がかつてナンパ師だった長い期間にも感じていた感覚を──当時はそれを<ウソ社会>と表現していましたが──濃厚に刻印した作品が陸続と出てきていると感じたからです。しかも、かつてと違って妄想の共有を信頼できなくなったせいで被害妄想的になった人々の、浅ましい営みが社会に蔓延しているという僕の年来の感覚──ここ数年それを<クソ社会>と表現してきました──も映画に満ちて来ました。ならば、僕が言う「実存批評」の出番だ、やっと言いたいことが言えるぞ、と。ちなみに妄想の共有は「利己と利他の対称性」を通じて「正義と享楽の一致」をもたらします。

 言いたいことは、本書のタイトルになっている「正義から享楽へ」をはじめとする、「<自動機械>から<なりすまし>へ」「<交換>から<贈与>へ」などのモチーフです。『正義から享楽へ』のまえがきで明言しているように、僕が長年抱いてきたけれど伝えるのは難しいなと感じてきたこうしたモチーフを、皆さんに最も効果的に伝えるために、“映画を利用している”のです。

例えば「宮台真司は右か左か」という論議が過去20年間繰り返されて来ましたが、申し上げた自動機械のモチーフゆえに、僕はリベラルが嫌いです。そのことも、モチーフが伝えられない間はなかなか表現する機会がありませんでした。リベラルの多くは僕がいう<クソ左翼>、つまり言語的に駆動された自動機械です。最近の例。トランプがヒラリーに勝った理由に、ラストベルト(アメリカ中西部から大西洋岸の中部にわたるかつての工業地帯)の没落労働者がトランプを支持したからだという通説が語られますが、異説もある。

 白人福音派の81%が共和党トランプに投票しました。オバマ誕生の大統領選ではオバマが福音派なので白人福音派の73%が民主党オバマに投票したから真逆です。原因は第3回目の大統領候補討論会の主題となった「中絶」。多くの州で出産直前まで中絶可能なアメリカでは、4ヶ月制限の日本とは違う文脈が加わります。民主党リベラルのヒラリーは一般女性らの会合で、お腹にいるか生まれたかで赤ちゃんに人権があるかないかを決めるのことに違和感を示した女性に、出産寸前であっても胎児には権利はないと断言*1。福音派とカトリックの間で「リベラルには心がないのか」と物議を醸しました。Googleトレンドの統計によれば、投票日前日の大統領選関連ワード検索で「ヒラリー アボーション」の組み合せが断トツでした*2*3*4。

*1 ウーピー・ゴールドバーグの女子トーク番組の中でヒラリーがその立場を明確にした。
http://www.lifenews.com/2016/04/05/hillary-clinton-an-unborn-child-just-hours-before-delivery-has-no-constitutional-rights/

*2 Googleトレンドについての記事は以下を参照せよ。
https://www.lifesitenews.com/news/breaking-google-trends-just-revealed-abortion-is-top-search-about-hillary

*3 Googleトレンドの選挙当日の朝の時間ごとの動きは以下を参照せよ。
http://newslab.pitchinteractive.com/ws/5723088213770240/index.html#/5762957321437184/issues/ww-US/horserace?_k=0bjzt9

*4 プロチョイス(中絶自由推進)に立つcosmopolitanがトランプ勝利の翌日に出した記事には、リベラルの狼狽ぶりが具体的な未来予測として描かれている。
http://www.cosmopolitan.com/politics/a8262419/donald-trump-abortion-roe-v-wade/

 実際リベラルの一部は、やむを得ない事情があれば中絶を認めていいという言い方にも文句を言う。「事情どうのこうのは関係ない、母親が産みたくないと思えばそれを尊重して当然」と。これは「(女性の)権利」という言葉の自動機械を思わせます。胎内の3Dスキャン映像を見ると妊娠4カ月でも顔の個性が見え、1カ月前にもなれば姿勢から仕草まで生まれた後と遜色ない。3人の子がいる僕は熟知しています。今はそれも知られているから、4カ月制限がない所が多いアメリカで、生まれていないなら権利はないという物言いの冷血ぶりが、白人女性の反発も招いたのです。行政や病院が、意図せぬ妊娠をした女性が黒人であれば「プロチョイス」(中絶自由推進)を説き、白人であれば「プロライフ」(生命尊重)の観点から日本でいう特別養子縁組を推奨してきたの内部告発もありました。ちなみに僕は特別養子縁組制度の普及を巡るイベントに複数回関与してきました。

 自動機械の如く権利の有無を議論する営みを僕は「正しさマウンティング」と呼びます。20年前にリチャード・ローティが指摘した内容です。グローバル化で貧困化が進めば、減った座席を巡って仲間と思えない連中を叩き出す排除が生じて当然だとした上で、彼は「白人と黒人は平等」「男と女は平等」といった言葉に従ってルールを作ればいいとしてきた輩を「文化左翼」と扱き下ろす。僕の<クソ左翼>と同じですね。この輩が感情を抑圧してきたので、余裕がなくなりゃ叩き出し合いが始まる。必要なのは「言葉」じゃなく、全ての白人男が黒人や女が侮蔑されたら自分の仲間が侮蔑されたと感じて激昂するように育てる「感情」のインストールだと。

 ここには「利己と利他の対称性」を通じた「正義と享楽の一致」のモチーフがあります。「内なる光」を灯すプラグマティズムの基本理念なのです。逆に「正しさマウンティング」は攻撃によって享楽を独占する=享楽を剥奪するゲームです。むろん、リベラルの正しさゲームと言っても所詮「仲間内」の平等ゲームに過ぎず、それ自体が外部からの「享楽の剥奪」に過ぎないことは、コミュニタリアンが歴史的・理論的に論証してきた通り。所詮は先住民の大虐殺の上に作られた国です。そのことが昨年になってアメリカでようやく大手メディア内で公言できるようになったことも、あとがきで紹介しています。

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