菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第11回
菊地成孔の『ぼくのおじさん』評:出演者全員が新境地を見せる、のほほんとした反骨映画
そんな山下の「静かな問題作」
最新作、『ぼくのおじさん』は、映画全体が主体的に押し出そうとする「のほほんと心がほっこりする」ムードとは裏腹に、山下作品史上、最も明確な反骨性が露わになっている特異な作品である。静かな問題作、と言ってしまって良いだろう(資料によれば、本作の映画化を強く推進したのは山下ではなく『探偵はBARにいる』の脚本とプロデュースを手掛けた須藤泰司で、小学生の時に原作に惚れ込み、後年、松田龍平に惚れ込むことで、松田主演を想定した脚本を書いて、映画化にこぎつけたそうだ)。
原作は、すでに「言わずと知れた」というのもギリギリな、昭和中期の代表的な児童文学である。まず、「どの時代に設定をアサインさせるか?」という興味に(例外的なまでに)そそられてしまう。原作発表当時に時代を移してしまうことは、現代映画の、あらゆる意味での時代考証力/再現力水準からしたら、赤子の手をひねるようなものだ。
設定年代
しかし、「今、昭和中期を舞台にする」事には、過分なテーマ性が生じてしまう。「あの頃は良かった/なんだかんだで今が一番」というアンビバレンスに観客を陥れたかったら、室町時代や終戦直後を圧倒する力が、バブルより前の昭和中期にはある。
スマホの写り込み
そして山下は、そんなベタはやらかさない。本作は現代の設定だ。さらに「あれー、それやっちゃうと、ちょっと突っ込まれますよ」という、「今の話なのに、スマホやPCが一切出てこない映画(よくある)」にはしていない、ギリギリの必要最低限ではちゃんと出す。誠実な態度である。
それにしてもしかし、ちゃんと現代の物語として成り立っている『ぼくのおじさん』は、一体何を伝えるのであろうか? 新時代の反骨精神を懐中に呑んだ、新時代の職人監督であり、新時代の作家である山下は、高い可能性で、個人的なノスタルジーと、現代への様々な(わかり易くて強い)反発心、松田龍平への惚れ込み、といった、他者の、どちらかというとあけすけなまでに激しい欲望を柔らかくキャッチして後、何をして自らの作品としてブランディングしたのだろうか?
出演者全員が、演技の新境地を見せる
本作の驚愕的なポイントは、出演者が「今まで見たこともなかった演技を、ナチュラルにこなしている」ことであり、それが本作の、ほとんどすべてである(周期的に出てくる「天才子役」の一人である、実質上の主演男優、大西利空の演技は、ほとんどの観客にとって初見であり、つまり真のフレッシュであり、この特異点には当該しないが)。
プロモーション的には、松田龍平の「ニューキャラ」が押しにならざるをえないだろうし、松田の新境地ぶりは素晴らしい。屁理屈ばっかりこねている、ダメな哲学者であり、純真な人々しか価値を見出せない、愛すべき灰色の天使ぶりは、何せ訥弁風でありながら饒舌であり、そのセリフ回しは、世捨て人特有の、ギリギリな嫌らしさまで包含し、「BOSSの缶コーヒー」から「あまちゃんの芸能マネージャー」まで、また、それで充分であった松田の高い安定性を打ち壊すものだ。個人的な感慨は「松田龍平って、こんなに俗で普通な人なの?」というものである。
しかし、恐るべき事に、本作は、気がつけばなんとほとんど全員が、松田並みの新境地を見せている、つまり全員が、「今までの役とは違う」というルールでアンサンブルを行っているのである。
団地のおばさんとして完成している、コメディエンヌとしての寺島しのぶを、よしんば見る日が来るとして、こんなに早く、ここまで完璧に見せられると、誰が予想していただろうか? ここまで陰気で、面白みが去勢された宮藤官九郎の存在を、いくらもみ上げを伸ばし、ちょび髭を蓄え、顔面に当てる照明を落としたとしても、目の当たりにすると、誰が予想していただろうか? ここまでデトックスされた銀粉蝶を、ここまで化粧っ気のない戸田恵梨香を、ここまで韓国ドラマの脇役である、バイタリティのある元美人の中年女をトレースしたキムラ緑子を、そして彼ら、彼女らが一堂に会する場を、誰が想像しえただろうか?
そして、傑出しているのは真木よう子である。セクシーでもなく、強くもなく、影もなく、つまり、幾つかのよくある現代女優としての強度をガチガチに固めた彼女が今回打ち出すのは、「弱度」としか言いようがない、負の強度である。これはもちろん「弱い女」などといった手垢にまみれたものではない。この点は、出演者全員に共通している。つまり「単なる反転」ではない、「逸らし」っぷりが一人残らず成功しているのだ。
「いるわー、こういう人。写真家やってて、ハワイに住んでる人で、ちょっとネイチュア系の人で、でも日本人日本人した人」という、キワキワの類型を、ダーツの真芯を指先で軽く押さえるように真木は演じきっている。
この、集団的な反抗運動ともいうべき、結構なアグレッシヴは偶然の産物なのだろうか? 事の本質はアグレッシヴであるのに、訴えるムードは、ほっこりでニッコリで、じんわりで軽い(音楽は、ギリギリで作為的にまで昭和感に寄せているが、水準が高いので見て見ぬ振りをする)。SNSでジャパンクールで不景気で不安な現代日本に対するアゲインストは、あるといえばある、ないといえばない。物語は綺麗に前半と後半にディバイドされており、前半だけ見たら、現代か昭和中期なのか判別が難しい。
原作の選択から始まるこんな綱渡りを、山下敦弘以外の誰にできるというのだろうか? そして再び、山下敦弘は作家なのか職人なのか?その問いを突きつけながら、その問い自体を無化してしまう。『ぼくのおじさん』は、のほほんとした反骨映画であり、静かな問題作である。松田龍平と大西利空のコンビに癒されようとしたり、胸をキュンキュンさせようとしたり、泣こうとしたり、あったかい気持ちになろうとしたり、つまり、エンターテインメントに大味な醍醐味を求めているだけの善良な観客は皆、大いに、あるいはそこそこ楽しみながら、意識の底にザワつきを埋め込まれていることに、しばらくして気付くか、あるいは一生気付かないであろう。
(文=菊地成孔)
■公開情報
『ぼくのおじさん』
11月3日(木・祝)全国ロードショー
監督:山下敦弘
出演:松田龍平 大西利空(子役) 真木よう子 戸次重幸 寺島しのぶ 宮藤官九郎 キムラ緑子 銀粉蝶 戸田恵梨香
原作:北杜夫「ぼくのおじさん」(新潮文庫刊)
(c)1972北杜夫/新潮社 (c)2016「ぼくのおじさん」製作委員会
公式サイト:www.bokuno-ojisan.jp