黒沢清監督が仕掛ける“違和感”の意味ーー『クリーピー 偽りの隣人』の演出を読む

 国内外で新作が待ち望まれる黒沢清監督の今回の題材は、日本ミステリー文学大賞新人賞を獲得した小説を原作として、実際の凶悪事件を思い起こさせる未解決事件の捜査と、異常な隣人への恐怖を描くという、『クリーピー 偽りの隣人』だ。芸術性と娯楽性の間で、危うい均衡を保ちながら評価を積み上げてきた黒沢清監督作としては、娯楽要素に重点が置かれ、物語の展開でグイグイと引き込んでいくようなオーソドックスな構成となっており、比較的消化しやすいといえるだろう。たがこの映画、一見して分かりやすいつくりだけに、黒沢清作品特有の奇妙な感覚が、今まで以上に異物として目立っているのも確かだ。この面白い違和感というのは、映画を見慣れていて、一通りのサスペンス演出を理解している観客ほど強く感じるはずだ。今回は、その「違和感」の理由を中心に、本作の魅力を考えていきたいと思う。

 

 今回のようなサイコ・スリラーの要素がある作品を演出する場合、異常なシーンを見せて観客を不気味がらせるというのは常道である。例えばそれは、事件に巻き込まれる主人公の平穏な日常と、犯人の異常な行動の描写を対比し、その差異を際立たせることで恐怖を感じさせるというものだ。だが本作が奇妙なのは、香川照之演じる、気持ちの悪いサイコパスな隣人の異常な行動と対比されるべき、主人公たちの日常的な描写すら、ことごとく「なにか変」だという点である。西島秀俊が演じる、元刑事の犯罪心理学者・高倉と、東出昌大が演じる刑事・野上は、6年前に起きた一家失踪事件に取り付かれ、真実にたどり着くために、事件の被害関係者の体をつかんで恫喝までする。竹内結子が演じる高倉の妻・康子は、隣人の不可解な行動に恐怖を覚えながらも、なぜか大きなガラスの容器に、たっぷりなみなみと注いだシチューを持って、交流を深めようとする。これらの異様な行動は、「決定的に狂っている」とまでは断言できないものの、確実になにかが捻じ曲がっているように感じられる。

 狂っている気がするのは、物語に関係がある登場人物だけではない。高倉が勤める大学の研究室は、外側がガラス張りになっており、学生たちが憩うキャンパスの広場を眺めることができる。休み時間なのか、そこで学生がたちめいめいに集結しだし、いつの間にかものすごい数になっているという場面が、役者たちの演技の「背景」として展開しているという様子は、不自然さを通り越して、怪しげな宗教儀式が始まったのかとすら思えてくる、気持ちの悪い(クリーピーな)光景だ。テラス席に座る男子学生のひとりが振り返り、視線をこちらに向けるという場面も、非常に奇妙な印象を与える箇所である。もちろんこれらのシーンは、物語とは何一つ関連がない。

 

 通常、劇映画というのは観客を楽しませるために、整理された分かりやすい情報を提供しなければならない。画面の余計な情報を制限し、誤読の余地を排除しつつ、映るものに分かりやすい「意味づけ」を与えることが必要だ。そうでなければ、作品のどこを注目して良いのか分からず、観客が混乱してしまうからである。それができていない本作は、いわゆる「ツッコミどころ満載」な、散漫で下手な演出ということになってしまう。しかし、よく考えてみて欲しい。ほとんどのシーンにこのような違和感を与えられる描写があるのである。例えば、何十問もある丸ばつクイズの答えを「全て」間違う人物がいたら、それは逆に、全ての答えを知っており、間違えてやろうという強い意図があることを示しているはずだ。しかし黒沢清監督は、劇映画としての分かりやすさやリアリティを犠牲にしてまで、何故、あえてそのようなことをするのだろうか。

 黒沢清監督の過去作に、『ココロ、オドル。』という短編がある。丘から出演者たちが移動するところで、雲が切れて丘に光が差し込んでくるというシーンが印象的だ。だが、この光の演出は意図したものでなく、ただの「偶然」であるという。そしてそれが、ハワード・ホークス監督の傑作西部劇『赤い河』のワンシーンに似ていると喜ぶ、いかにもシネフィル的な無邪気さを、この奇妙な監督は持ち合わせている。つまり、黒沢清作品において、各シーンは全体を構成するためのパーツであるというよりも、それら自身がある種の即興性を持って、文脈から切り離されたものになっても構わないということだ。これは実験映画的であり、またフランスのジャン=リュック・ゴダール監督やジャック・リヴェット監督など、「ヌーヴェルヴァーグ」にみられる手法でもある。

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