いじめを“見て見ぬふり”することは罪かーー『十字架』が訴えるメッセージ

 葬式から始まり、いじめのシーンへと物語は展開していく。そのシーンはあまりに衝撃的で、胃がギュッと掴まれるような感覚を味わうこととなる。ただここで、その事実に目を背けないでほしい。この痛みが自分のものだと実感してみてほしい。目を背けたいものにこそ、目を向けなければならない。見て見ぬふり、それは人間としての醜さを表し、一生の後悔へと繋がっていく。

(c)重松清/講談社/(c)2015「十字架」製作委員会

 いじめを苦に自殺、そんなニュースがあとを絶たない。私は学生でもないし、子を持つ親でもない。ただこの手のニュースが出ると、加害者への憎しみ、被害者への憐れみ、そして周囲の人間への苛立ちを感じてしまう。加害者に対しては、なぜ個人を侵害する権利があるのかということ、被害者には、先の人生があるのだから、もっと生き続けて欲しかったということ、そして周囲の人間に対しては、どうして気づいてあげることができなかったのか、どうして見て見ぬふりをしたのかということを。私は完全に、第三者の目線で見ている。見て見ぬふりをする、もしかしたらその立場にいた人間が、一番じわじわした心の痛みを、長く強いられることになるのかもしれない。そこには助けたいが助けることができないというジレンマ、加害者には欠乏している良心も存在する。そしてその良心こそが、自分自身を追い詰め、苦しめていくのだ。

 この映画は事実から目を背け、見て見ぬふりをした人間の、苦悩と後悔を描いた作品だ。人より自分を守ろうとした弱者の話、と言った方がいいだろうか。いじめの対象であり、幼馴染でもある同級生を助けることができなかったユウ、被害者の好意を突き放したサユ、生徒の死を責任転嫁する教師、異変に気づきつつ、息子と向き合うことを避けていた母親。立場は違えど、誰も被害者本人と向き合おうとはしなかった。これがいじめの現実であろう。誰かが手を差し伸べていれば、事情は変わっていたのかもしれない。

(c)重松清/講談社/(c)2015「十字架」製作委員会

 日本は「言わない」というのが正しい文化、とされているような節もある。言いたいことを口に出さない、言ったら自分の立場が悪くなる、嫌われる。本音をぶつけず、すべてオブラートに包むようなやり方が日本人は好きであり、自分の考えをはっきり口に出せば、群れから外される恐れもある。ただこれはあくまで、日本のスタンダードであって、世界のスタンダードでもなければ、人間のスタンダードでもないだろう。人として言うべきことを、あえて言わずに過ごす文化。そこに優しさを感じることもあれば、その優しさは時として凶器になる。私はこのような文化を恐ろしく思う。

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