菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第2回(前編)

日本のノワール映画は“エグいジャパンクール”ーー菊地成孔が『木屋町 DARUMA』を読み解く

「女子目線」の在処

 中間地点の重要点として、「男の映画」でさえ、「フェミニズム」という敵はもう無視出来ない。というテーゼを上げさせて頂きます。

 『仁義なき戦い』『龍が如く』等々の 20世紀ノワールクラシックスに対し、21世紀のヤクザ映画を描くならば、もう課題はこの一点だけとも言えます。これは関係各位、猛勉強して頂きたい所です。

 本作は“女子の目線“というものを極端に排しているけれど、まあ、しょうがない、このジャンルにそんなもんなかったんですから(「鬼流院花子」とか、ああいう「女ヤクザ」「姉さん映画」は、女子目線ではありません)。

 そもそも女性は観なくても良いという前提です。マーケットを絞るのは悪事ではありませんが、広げるのも悪事ではない。「あの『マッドマックス』にシスターフッド/フェミニズム的視点が!!」と騒がしい昨今ですが、今作では、そんなもん知るかい。というアティテュードで、それならそれで潔い訳ですが、問題は、潔くてもダメなもんはダメということです。

 本作の「女の目線なんか知るか」という潔さは、どちらかといえば、「振り切っていてあっぱれ」というより、「狭量さ」にしか映りません。「やれば出来そう」に見えるからです。

 この犠牲を、武田梨奈さんがひとりで背負っている印象で、実際に彼女は現場でも相当にしごかれたそうです。しごかれる事自体は彼女はまだ若手だからしょうがない部分もあるのでしょうけれど、この現場で、もっと「若い女の子の魅力も出していこう」という空気があったら、さらに間口の広い作品になった気がします。

 これは決して彼女が悪いということではなくて、映画の構造上、そういうポジションになってしまっているんですけど。全然可愛く撮れてないし、例の「やりすぎシリーズ」で、もう、笑う程図式的に墜ちて行く彼女は、聴いていて嫌になるほどエロくて汚い言葉を吐散らすんですが、痛々しさしかなく「女が墜ちて行くちゅうのはこんなもんじゃい」と言われたらそれっきりですが、そんなもんは古くさいバカな男のファンタジーで、まったく共感出来ません。

 たとえば、『アウトレイジ』などは女性の観客も含めてそれなりの興行成績を達成しました。それは加瀬亮さんや三浦友和がヤクザになったということ、つまり一般的に女子が好きな俳優がヤクザになったという北野監督の大ホームランが、映画の魅力のひとつになっていたということだと思うんです。

 そういう感覚を入れてあげると、もっと良い作品になったと思います。ただ、お金もそれほど使えなかったでしょうし、少ない仲間でちゃんとスタッフを賄っていかなければいけなかったでしょうから、それで男同士でがんばっているうちに、ものすごくブラザーフッドというか、ホモソシアルになってしまうのはしょうがない。この制作チームの志はちゃんと買うので、その辺も踏まえて今後も良作を作り続けてほしいものです。「萌えさせろ」等とゲスな事は言いませんが、武田さんへの扱いは、余りにも古くさ過ぎるミソジニー(女性嫌悪)で、「顔ぐらいは普通に可愛く撮って上げたら?」という思いが最後まで抜けませんでした。

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