【追悼】ちばてつやが「なんでもない場面」にこそ力を入れていた理由とは? 緻密な表現で描き続けた“人間らしさ”
2026年10月22日、『あしたのジョー』(原作・高森朝雄)や『おれは鉄兵』などのヒット作で知られる、漫画家のちばてつやが死去した。87歳だった。
ちばてつやは1939年生まれ。同年11月、家族とともに満洲に移住。1945年、同地で終戦を迎え、世界は一変(日本の敗戦にともなう略奪や暴動を目の当たりにする)。翌年なんとか帰国はできたものの、このときの過酷な体験が、のちの“漫画家・ちばてつや”の原点となる。
1956年、貸本漫画『復讐のせむし男』でデビュー(17歳)。以後、高校に通いながら貸本漫画の執筆を続けた。
1958年には、読切『舞踏会の少女』が「少女ブック」に掲載され、商業誌(少女誌)デビュー。1960年代以降は、執筆の場を少年誌に移し、『ちかいの魔球』(原作・福本和也)、『紫電改のタカ』、『ハリスの旋風(かぜ)』といったヒット作を連発。とりわけ、高森朝雄(梶原一騎)と組んで、1968年から「週刊少年マガジン」で連載した『あしたのジョー』は、社会現象的な大ヒット作となった。
その後は、角界を舞台にした『のたり松太郎』(本作で青年誌へ進出)、プロゴルフの世界に取材した『あした天気になあれ』など、スポーツ漫画のジャンルで新境地を開いた(いずれもロングランのヒット作となった)。
2018年には、日本漫画家協会の会長に就任。翌年には文星芸術大学の学長に就任(2022年まで)するなど、漫画界の発展と後進の育成にも力を注いだ。
緻密なヴィジュアル表現が、物語に深みを与える
さて、このちばてつやの漫画のどこに惹かれるのかと問われれば、きっと読者の多くは、人間味あふれるキャラクターたちの魅力を挙げることだろう。だが、あえて、本稿では、ちばのヴィジュアル表現の凄さを強調したい。なぜなら、そうした巧みなヴィジュアル表現があるからこそ、ちばの漫画のキャラは立っている、ともいえるからだ。
とはいえ、ここでは、いまや「ちばてつや」の代名詞にもなっている、「まっ白に燃え尽きたジョー」のような絵のことをいっているわけではない。むしろ、ちばてつやのヴィジュアル表現の凄みは、そういう劇的な絵よりも、なんでもない日々の1コマや、キャラクターたちがさりげなく見せるわずかな表情の変化にあるといっていい。
たとえば、明らかに凄いのはカット割り(モンタージュ/フレーミング)のテクニックだ。ちばのカット割りは、手塚治虫やトキワ荘グループの漫画家たちが得意とする、テンポのいいそれとは異なり、比較的ゆったりとしたテンポで、コマとコマをつないだり、場面を切り替えたりするもの。
この独特な時間の流れ(「間」の取り方)が、ちばの漫画においては、人間の感情の起伏や、風景の美しさの描写を際立たせているのだと私は思う。
また、凄いといえば、そもそも絵の描き込みが凄い。あえて記号化せずに、小さなコマの中でも手を抜かずに執拗に描き込まれたリアルな人物や小道具は、それだけで、実存的な“動き”と空気をコマの中に作り出す。
さらにいえば、ちばは、そうしたリアルな絵をより効果的に見せるために、あえて、建物や風景のパースを少し狂わせている。つまり、リアリズムの中に、シュルレアリスティックな要素を取り入れているわけだが、彼のペンタッチはどこまでも温かく、かつ、フレーミング自体はきちんとしているため、読んでいて不安な気持ちになることはない。そして、そうした緻密に計算されたヴィジュアル表現の数々があるからこそ、先に述べたような、「なんでもない日々の1コマ」の描写が活きてくるのだ。
「なんでもない日々」を守るために
実は筆者は以前、新型コロナウイルスが猛威を振るっていた頃(2021年2月)、「パンデミックと創作」というテーマで、ちばてつやにリモートで取材を行ったことがある。そのとき、彼がいった言葉を引用しよう。
「(引用者注・漫画には)一見、物語の本筋とは関係ないと思われるような『何気ない場面』こそが重要だと思っています。たとえば、ある物語で、朝、幼い子供が鍋を持って豆腐を買いに行くだけのシーンに八ページ費やしたことがあるんです。団地の階段を一歩一歩降りていったりね。ストーリーと直接関係ないシーンが何枚も続くわけですから、編集さんはかなり困惑していましたが(笑)、私はそういうなんでもない場面こそが、詩情があるというのかな、『人間らしさ』を描くためには重要な気がするんですよ」
~『コロナと漫画―7人の漫画家が語るパンデミックと創作』島田一志・編(小学館クリエイティブ)より~
そう、この、「なんでもない場面」が「人間らしさ」を描く、という言葉は、ちばが幼少期に、異国の地で、一夜にして「なんでもない」日々を失うという過酷な経験をしたからこそいえるものだろう。
思えば、コロナ禍のさなかでも、ちばがもっとも心配していたのは、自分のことではなく、「若者たちの未来」であった。現在、周知のように、コロナのパンデミックはだいぶ収まってきてはいるものの(注・新型コロナウイルスが消滅したわけではない)、いつの日にかまた、パンデミックとは別の形の脅威が、若者たちの未来を脅かさないとは限らない。
この先もずっと若者たちが「人間」らしくあるために、「なんでもない日々」を描いたちばてつやの漫画は、永遠に読み継がれていくべきだと私は思う。