スマホやSNSがない社会でも“炎上”は起こるーー文化人類学者・箕曲在弘に聞く、「あたりまえ」を切り崩した先の風景

箕曲在弘『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』(大和書房)

 ふとしたときにスマホを開く。飛び込んできた動画やニュースを追っているうちに数分が過ぎた。買い物やお店選びに迷っても、AIがすぐに答えを見つけてくれる。さっき地球の裏側の国で起きた大事件も、既にチェック済みだ。

 今の時代、情報を得るための手間やコストは極限まで減った。しかし、流れていく画面にも飽きて、テーブル上にスマホを投げ出した後に感じる、あの虚しい気分は何なのか。世界のあらゆる情報が手に入るはずなのに、どこか物足りない気がするーー。

 スマホやSNSが「あたりまえ」の若い世代を中心に、今、『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』(大和書房)が読まれている。本書は「非科学的なものは信じられない」「日本人なら無宗教であるほうが自然」など、我々が自然と身に付けている固定観念を文化人類学の知見で解きほぐしていく。固定観念の向こう側にのぞく世界が読者を惹きつけ、発売約1年で発行部数3万部、9刷を記録するなどのヒットを飛ばしている。

 情報が氾濫する社会のなかで「あたりまえを切り崩す」ことは、なぜ重要なのか。それは私たちの生き方や価値観にどのような変化をもたらすのか。著者で早稲田大学文学学術院教授の箕曲在弘氏に話を聞いた。

文化人類学は「何でも分かる」の閉塞感を打ち破る

――『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』(以下、本書)が好評ですね。ヒットについて率直な感想をお聞かせいただけますか。

箕曲在弘氏(以下、箕曲):同世代の文化人類学者である松村圭一郎さんや小川さやかさんの著作が広く読まれているので、文化人類学に対する世間的な関心の高まりは感じていました。ただ、これほど多くの読者の手に取ってもらえるとは思っていませんでした。まったくの予想外です。

――本書のコンセプトでもある、固定観念や思い込みを覆される「切り崩し」の体験が、今、広く求められているのでしょうか。

箕曲:そう思います。今の時代は、スマホで調べればあらゆる情報が手に入るという感覚が若い世代ほど色濃いようです。それ自体が固定観念の一つなのですが、一方で「スマホで何でも分かる」という感覚が世界への新鮮味を奪い、閉塞感を生んでいるのも事実だと思います。「何でも分かる」はずなのに、今ひとつ世の中を深く理解できた実感がないと。そうしたモヤモヤのなかで、異なる地域や文化を学んで、自らの生き方や価値観が自明ではなかったことを知ると、心が揺さぶられるのだと思います。

――「何でも知っていると思っていたのに、こんなに知らないことがあった」という感動ですね。

箕曲:まさにそうです。本書では文化人類学の手法を通じて既存の価値観や世界認識が覆ることを「切り崩し」と呼んでいます。

 あと、本書の第8章「民族とエスニシティ」が、昨年に物議を醸した排外主義の問題への異論になっていたことも、読者の関心を惹いたと思います。「日本人ファースト」が広く叫ばれるなかで釈然としない思いを抱えていた人は想像以上に多かったようです。実際に「この本を読んで排外主義に感じていた違和感を言語化できた」という反響も多いですね。

――第8章ではフレデリック・バルトの民族境界論を用いながら「日本人」というカテゴリーが必ずしも自明ではないと解説しています。こうした文化や民族の「境界」を問い直すことに、今、社会的意義があるとお考えですか。

箕曲:強く思います。今、私たちは膨大な情報に晒されながら生きているので、情報処理を効率化するためにも物事を割り切って考えるクセが付いています。こちらが正しくて、あちらが誤り。この人が仲間で、あの人が他人といったように。そうした境界を設けることは、確かに効率的ではありますが、その一方で不寛容な社会も生み出します。効率化のために曖昧さを許容しない思考法は、必然的に「敵」と「味方」を分けて、対立を生じさせるからです。

 文化人類学という学問の肝は「境界を常に問い直し続けること」だと思っています。私たちが当然だと思っている物事の境界を解きほぐして、その裏に潜んでいる普遍性を見出していく。昨今は、社会的な分断や対立が深まりつつある時代ですし、その閉塞感を打破するためにも、文化人類学には重要な役割があると思います。

初めての海外旅行で遭遇した「切り崩し」

――もちろん、箕曲さんにも「切り崩し」の経験があったわけですよね。本書でもラオスのコーヒー農場での2年間のフィールドワークの経験を語られています。

箕曲:そうですね。ただ、私とは比べ物にならないほど強烈な経験をしている文化人類学者はごろごろいますし、必ずしも長期間、海外の農村や山間地に身を置かないと「切り崩し」を経験できないわけでもないかなと。

 例えば、私の初めての「切り崩し」の経験は、大学の入学以前にヨーロッパにバックパッカー旅行をしたときでした。バックパッカー旅行といっても、初めての海外旅行で、ギリシアやイタリアの観光地を巡るごく一般的な旅です。そのときにギリシアでパルテノン神殿を訪れようとしたら、逆方向のバスに乗ってしまって、地元の人たちが住んでいるただの団地に迷い込んだんです。

――初めての海外旅行にありそうな失敗ですね。

箕曲:まったくそうなんです。ただ、その失敗が良かった。偶然たどり着いた団地の光景が、日本の団地の様子とほとんど同じだったんです。夕暮れどきに人もまばらな中で子供たちが広場の遊具で遊んでいて「あれ?日本と変わらないな」と。その光景が今でも印象深く心に残っています。

――頭の中ではパルテノン神殿を思い描いていたのに、日本と変わらない風景に出会ったと。

箕曲:何のことはない海外旅行初心者の失敗談なのですが、今振り返ると、あれが文化人類学者を志す原点だったような気がします。つまり、観光地とは、文化的な価値はある一方で、作為的な空間でもあるわけです。私の場合は、旅行先で現地の団地に迷い込んだ経験から「観光地って何だろう?」という批判的な眼差しを持つことができました。しかも、ここが重要なのが、バスに乗り間違えるという「偶然の出来事」から、自分の思い込みを疑うことができた。

 こうした経験が「切り崩し」だと私は思います。文化人類学は、巷間よく口にされる「常識を疑おう」という学問ではないんです。物事に懐疑的な視点を向けて虚飾や欺瞞を暴くのではなく、学問的な知見や手法を通じて、自らの固定観念や価値観を問い直していく。疑うのは常識ではなく自分自身なんです。実は、本書のタイトルを「自分のあたりまえを疑う」ではなく、「自分のあたりまえを切り崩す」にした理由も、その意図からでした。

SNSがなくても「炎上」は起こる

――本書をきっかけに文化人類学の手法の面白さを知る読者も多いと思います。第4章「汚穢(けがれ)と禁忌」では、現代の「不倫スキャンダル」を文化人類学のアプローチで解説されています。

箕曲:文化人類学は海外の文化や習俗だけを研究対象にしていると思われがちなんですが、最近では身近な生活空間を分析する研究も増えています。逆に言えば、海外の農村でも、東京の都心でも、人間の暮らしや行動様式には構造的に共通している部分が多いんです。だから、現代的な事象でも、文化人類学の理論や学説で分析ができると。

――そうなんですか?例えば、身近な話題で言えば「ネット炎上」は、SNSが普及していない地域や共同体には存在しないのでは?

箕曲:そうとも言えません。というのも、私自身がラオスのコーヒー農場でSNSを介さない「リアル・ネット炎上」を経験したことがあるんですよ。

――リアル・ネット炎上ですか?

箕曲:私はラオスのコーヒー農場で日本のある事業者とフェアトレードの仕組みを作るプロジェクトに携わっていたんです。そのある年に、ラオス側の事業者のトップの悪い噂が流れたことがありました。ラオスのコーヒー農場で働く人々が「あいつは金を誤魔化して自分の懐に入れているらしい」と口々に噂をしているんです。

 後に調査してみたところ、着服の事実はありませんでした。では、そんな噂がどこから流れたのか。興味を持って、噂話をしていた人たちに聞き取りをしてみると、決まって農場のリーダー的存在のある人物に辿り着くんです。多くの人が、そのリーダー的な人物を指して「あいつに聞いたんだ」と。

 もう一つ興味深い点がありました。噂話の内容が、話者ごとに微妙に異なっていたことです。ラオスの事業者のトップが不正をしている点では概ね共通しているのですが、不正の内容や方法にはいくつものバリエーションがありました。おそらく、人から人に伝わっていくうちに噂話の内容が変化していったのだと思います。

――何かに似てますね…。

箕曲:そうなんですよ。この出来事はネット炎上と構造がとても似ています。あるインフルエンサーが情報を拡散し、SNSの投稿がシェアされていくうちに話が大袈裟になって、膨大な批判的言説を生むのがネット炎上です。ラオスのコーヒー農場で流行していた噂話もSNSこそ介していないものの、人びとの正義感の暴走による私的な制裁という点では、ネット炎上とほとんど同じ現象でした。

――炎上騒ぎはSNSやインターネットがあるから起きるわけではないと。

箕曲:文化人類学や社会学には「技術決定論批判」という考え方があります。技術決定論とは「テクノロジーが社会のあり方や人々の価値観を決定づけている」という主張です。「インターネットの登場で社会は個人主義化した」といった言説を耳にしたことがあると思います。確かに、最新のテクノロジーが新たな事象や出来事を生むことはありますが、かといって社会や人間の基礎的な条件までガラッと変えてしまうことはありません。あくまで、社会と技術が相互作用しながらお互いが変わっていくのです。

 ネット炎上についても同様で、その根底にあるコミュニケーションや噂話の問題は、多くの人間社会に共通する普遍的な条件です。では、このような「リアル炎上」と「ネット炎上」ではどういった違いがあるのか、SNSは実際にはいったい何を変えたのかと考えることで、身近な出来事も違った見え方がしてきます。今の世の中を俯瞰的に理解するためにも、文化人類学は役に立つんです。

「文化」は常に本来の姿をしていない

――本書で特に興味深く読んだのが第6章「宗教と宗教心」でした。本章では日本人が自らを「無宗教」と捉える感覚が、いかに近代化の過程のなかで形成されていったのかを解説しています。

箕曲:そうですね。明確な教義と教団を持ち、唯一神を崇める形式の宗教には馴染みがなくても、超自然的な力を信仰するアニミズム的な宗教には、多くの日本人が宗教心を抱いています。お正月に初詣に行って一年の無事を祈願するのは、そうした宗教心の現れの一つと言えます。

――自覚はしていなくても、信仰にあたる行為はしているというわけですね。ただ、クリスマスが分かりやすい例ですが、宗教的な背景はあるもののかなり商業的に消費されている催しもありますよね。そうしたイベントとアニミズム的な宗教に由来する行事の境界はどこにあるのでしょうか。

箕曲:必ずしも明確な線引きはできないかもしれません。例えば、お伊勢参りや四国のお遍路は土着的な宗教行事に端を発していますが、江戸時代頃には商業的なイベントとして消費されている面もありました。ある特定の行事に多くの人々が集まると、そこに商機を見出す人間は必ず現れますから、宗教的なものと商業的なもの境界を見出すのは、実は容易ではありません。

――となると、今の時代には、純粋に土着的な宗教行事も稀なわけですか。

箕曲:少なくとも、文化人類学の領域では、宗教も含めて純粋に土着的な文化にアクセスするのは困難になりつつあると言われています。かつては村のなかに根づいた慣習は日本国内にもたくさんありましたが、近代化によって失われていきました。現代の文化人類学は何か本質的な文化があると考えるのではなく、政治や経済、メディア環境のなかで変化しつつある途上の文化を捉えようとしています。

 これは現代の文化にも当てはまることで、例えば「オタク文化」は、1980年代にコミケに集って同人誌を売買している人々を、評論家の中森明夫が「おたく」と名付けたことが起源です。オタク文化は名前が付けられたことで世界に流布しましたが、今では本来の「コミケに集うこと」に留まらない意味合いになっています。このように文化とは、さまざまな人々が関わることによって、本来の姿から遠ざかっていくものなんです。

――なるほど。私たちは「これは日本古来の文化」などと口にしがちですね。

箕曲:先ほども述べましたが、文化人類学とは、境界を常に問い直し続ける学問だと思います。私たちの思う独自の文化も、実は時代のなかで形を変えてきた姿なのかもしれません。そうした思い込みや暗黙の前提を解きほぐすことが文化人類学の面白さなので、ぜひ多くの読者に関心を持ってほしいと思っています。

■書誌情報
『自分のあたりまえを切り崩す文化人類学入門』
著者:箕曲在弘
価格:1,980円
発売日:2024年12月21日
出版社:大和書房

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