『鬼滅の刃』なぜ猗窩座のファンが増えたのか? “同情できる鬼”に共通する特徴とは

■なぜ半天狗には「同情できない」と感じるのか

 しかしその一方、『鬼滅の刃』には同情されずに散っていった鬼も多い。「無限城編」で我妻善逸に首を落とされた上弦の陸・獪岳はその1人だ。

 獪岳はもともと元鳴柱・桑島慈悟郎の弟子として、善逸と共に修行を積んでいた。しかし鬼殺隊士になった後、上弦の壱と出会い、命乞いをして鬼になることを受け入れた。

 鬼殺隊士が鬼になるというのは言語道断とされているが、獪岳はそれ以前から自分の境遇に強い不満を抱いていた。というのも慈悟郎が自分と善逸を共同で後継者として指名したことを受け入れられず、“正しく評価されていない”と考えていたからだ。

 さらに『鬼滅の刃公式ファンブック 鬼殺隊見聞録・弐』では、幼少期に悲鳴嶼行冥の寺で暮らしていた際、金を盗んで追い出されたという情報も。悲鳴嶼が回想していた“自分の命ほしさに寺の子どもたちを鬼に差し出した人物”というのも、獪岳とされている。

 また、「刀鍛冶の里編」に登場した上弦の肆・半天狗は、極端に被害者意識をこじらせているのが特徴。目が見えないと嘘を吐き、色々な街で盗みと殺しを繰り返した末に打ち首が決まったところで無惨に救われた過去をもつ。しかも同ファンブックによると半天狗は幼少期から噓吐きだったらしく、ほかにもさまざまな悪行が紹介されている。

 いずれも同情されることの少ない鬼だが、両者に共通する特徴として、「自分の意志で悪の道に進んでいるように見える」という点が挙げられるだろう。猗窩座や妓夫太郎がどうしようもない理不尽に見舞われて悪に堕ちたのに対して、獪岳と半天狗は本人の意志次第で別の生き方を選べたように感じられる。

 実際にそうした性格の根底をなす部分は、首を斬られた際の反応などに表現されており、たとえば獪岳は最後の最後まで一切自分の行いを悔いる姿勢を見せていない。

 とはいえ、どこまでが自分の意志なのかを決定することは意外に難しい問題だ。獪岳や半天狗の性格も“生まれもっての不幸”と解釈すれば、本人にはどうしようもない運命だったと捉えられる。あるいは鬼にさえなっていなければ、何かのきっかけで生まれ変わるチャンスはあったのではないだろうか。

 結局のところ、被害者意識や劣等感といった人間の弱い部分に付け入り、改心する機会を奪った鬼舞辻無惨こそがすべての元凶……ということになるのかもしれない。

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