ちくま新書・橋本陽介編集長インタビュー「テーマが問いの形になっていた方が読者は受けとめやすいのではないか」
名刺さえあれば誰にでも原稿を依頼できる
――ちくま新書とちくまプリマー新書のわりふりはどうなっているんですか。
橋本:編集部は別個にあって企画決定権は、それぞれの編集長が持っています。私は以前ちくまプリマー新書の編集長でした。読者からみたらこれはプリマー新書でなく新書でいいんじゃないかとか、その逆というのもあると思います。私が去年、プリマー新書で作った『客観性の落とし穴』(村上靖彦)は、もともと新書にいた時、「統計バカ」みたいなタイトルで数字至上主義批判をやってもらおうとぼんやり考えたんですけど、書き手がみつからなかった。たまたま村上さんが客観性について書いていて、「客観的に考えよう」なら学校現場でありそうなテーマですし「客観的と主観的」ならプリマー新書っぽいタイトルだと思って完成した形になりました。新書とプリマー新書の違いは、紙一重ですね。
――本によって違うでしょうけど、新書1冊作るのにどれくらい時間がかかりますか。
橋本:依頼してから3年で出せたら万歳です。プリマー新書に私は4年在籍しましたけど、今年9月に新書から出た『歴史学はこう考える』(松沢裕作)はプリマー新書にいく前に依頼してから5、6年かかりました。それくらいは当たり前ですね。
思い出深いのが、上野千鶴子さんの『情報生産者になる』(2018年)。雑誌「AERA」で上野ゼミはなぜ人材を輩出するのかという記事を読み、これを本にしてもらおうと手紙を書いて一度断られたんですけど、やることになったんです。上野さんは当時東大を辞められ、立教大学の50歳以上向けの講座をやっていて、内容を教えるからそれに出てくれといわれたんです。週1回、約3時間の講義に1年くらい出て、講座生たちの飲み会にも参加しましたが、それで本が出たわけではありません。なかなか書いてもらえないからPR誌「ちくま」に1年半くらい連載してもらってなんとか形になった。すでにいっぱい予定を抱えている著名な方にお願いして、懐に入るのは難しい。それが、たまたまうまくいきました。昔、上司から「会社の名刺は誰にでも会いに行ける名刺なんだ」といわれましたが、これさえあれば誰にでも原稿を依頼できるというのは、本当だったなと思いました。
――新書のなかには、緊急出版みたいなものもありますよね。
橋本:ちくま新書で8月に出た『大阪・関西万博「失敗」の本質』は、私が担当しました。大阪万博に関してなにかやった方がいいと思い、兵庫県在住のライターの松本創さんが以前に新書を作ったことがあったので、軽い気持ちで聞いたら、「ぜひやりたい。早く出そう」といってくれた。それが4月で、8月に本が出ました。松本さんが本のはじめに書いていて腑に落ちたんですけど、早く出さないと後出しじゃんけんといわれる。終われば終ったでよかったじゃないかとおしまいにされるかもしれない。きちんと批判的に考察しておかないとダメだということです。だから、まだ始まっていないにもかかわらず『失敗の本質』とタイトルをつけたと書いていて、それは正しかったと思います。
――この30年間で新書だけでなく選書のレーベルも増えました。
橋本:新書も選書もデザインのフォーマットが決まっていて、コストが抑えられるのが大きい。例えば新潮社では、新潮新書はやさしいもの、新潮選書は硬派なものとしていい棲み分けができていると思います。当社はそのへんが難しくて、選書、新書、プリマー新書があって境目はどこなんだという。私の感覚だと、新書を作る時にプリマー新書くらい噛みくだいてもいいだろうという思いがあります。
――そのへんは編集部間で調整するんですか。
橋本:新書では難しいから選書にしようみたいな話はあります。
――ウェブでの展開はどうですか。
橋本:「ウェブちくま」というサイトがありますが、数年前に作業環境を改善した時、新書やプリマー新書の本の「はじめに」を読めるようにしました。そこが読者の導線になっていると思います。また、他社で様々なウェブ媒体がありますが、新書の一部をアップしてほしいという話はたくさんあって、先方は記事がほしい、こちらは宣伝になる。でも、それがすごく増えてしまったから、今は効果が出にくくなっています。
多様な企画を押さえつけずに自由にやってみよう
――今年9月にちくま新書は創刊30周年を迎え、書店で記念フェアを催しましたが、「問い」というテーマはどのように決めたんですか。
橋本:中公新書の編集長だった方が、百科事典の項目が並んでいるようなものとして新書を位置づける話をインタビューで読んだんです。とはいえ、ちくま新書が百科事典方式というか、歴史上の人物などの名前をタイトルにバンと出してもうまくいかない。中公新書や岩波新書はザ・入門書というか、そういう形が得意ですよね。ちくま新書も当然入門書として作ってはいますが。同じようにやって張りあっても勝ち目がない。一時期『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(山田真哉、2005年。光文社新書)とか、文章にすればいいみたいな傾向はあったんですけど、一つのテーマが問いの形になっていた方が読者は受けとめやすいのではないか。逆張りではないですけど、そう考えて、ちくま新書のラインナップを見返した時、創刊の最初が『貨幣とは何だろうか』(今村仁司、1994年)でしたし「問い」というワードが出てきたんです。
――フェアの選書リストをみると『日本人はなぜ無宗教なのか』(阿満利麿、1996年)、『「わかる」とはどういうことか』(山鳥重、2002年)など、ちくま新書にはなるほど問いかけるタイトルが多い。一つの伝統なんでしょうね。なかには、とてもキャッチーなタイトルもありますけど、企画を立てる段階から考えているんですか。
橋本:タイトルがパッと降りてくる瞬間もあります。『ウンコはどこから来て、どこへ行くのか』(湯澤規子、2020年)は、「ウンコの社会史」的な内容を書いてもらおうと曖昧な発想だったんですけど、どこかでブレークスルーさせなきゃいけないと考えて、降りてきたのがこのタイトルでした。普通なら怒られそうなフレーズですけど、ダメもとで著者に話したら「それだ!」と言ってくれた。そういう風に著者の腹が座る瞬間もあるでしょうし、このテーマでこのタイトルと明確にした方が、どういうことをやりたいかが伝わる。
――ちくま新書というレーベルの特徴とは。
橋本:難しい質問ですね。30年やっているので常に変わっているんです。昔は硬派なザ・人文書的なものだったんですけど、『現代語訳 論語と算盤』、『ウェブ進化論』など、徐々に読者に寄りそったもの、とっつきやすいものを入れる器としても機能するようになったのが強みではないか。その両方をうまくやれる新書は少ないんです。
編集部の人間次第で企画の面白みは変わるでしょうが、既存のちくま新書のイメージにとらわれず、多様な企画を押さえつけずに自由にやってみようという姿勢でいます。新書らしくない意外性のあるもので新たな動きが生まれ、新書っぽい新書と両輪でやっていく。地道なことをやりたい人に対しては背中を押しますし、変わったことをやりたい人にも違うんだよと押さえつけることがないようにしています。そういったなかで自分は編集長なので、どこが足りないかをみて、そこに注力する。
――編集長として、どのようにバランスをとるんですか。
橋本:ジャンルというのもあります。歴史、社会、哲学、思想、実用、経済、経営などいろいろあるなかで、あまりやっていないところをやった方がいい。得手、不得手、タイミングもあるでしょう。でも、自分は苦手な分野はいっぱいありますけど、苦手といっていられないし、経済、経営をやる人が少なかったので、自分も得意ではないけれど日経新聞などを読んで頑張ったんです。
例えば『マンガ 認知症』(佐藤眞一、ニコ・ニコルソン、2020年)は、ありそうでなかった本でしょう。全部がマンガではないけれど、新書にマンガの部分が多くあるとは普通思わない。単行本で医療コーナーに置かれていたらさほど読まれないわけで、1,000円程度の新書というパッケージだから読まれるようになる。きわどいところですが、それをやれるのが強みです。
専門書は高価ですし、1600円とか一般的な単行本レベルのものってなかなかないでしょう。でも入門書的な位置づけの新書でも、けっこう専門的なことを書いているものはあるし、だいたいの分野は揃っている。だから、買いやすく便利な器だと思います。