光石研「自分の半生を振り返る機会をいただいた」エッセイ集から見える名優の知られざる日常

 16歳のときに『博多っ子純情』(1978年)で銀幕デビューを果たして以降、数々の映画やドラマを支えてきた俳優・光石研。そんな彼によるエッセイ集『リバーサイドボーイズ』(三栄)が刊行された。本書は西日本新聞での連載をまとめたもので、故郷である北九州のことから、東京での俳優生活、さらには現在のプライベートなエピソードまで、軽やかな筆致で綴られている。光石研という人間の“リアル”に触れられる一冊だ。自身の半生について「俳優しかやってこなかった」と語る彼に、話を聞いた。(折田侑駿)

文章を読み返すのは、自分の演技を見ることよりも恥ずかしい

『リバーサイドボーイズ』は、2022年に刊行された『SOUND TRACK』に続く、光石研2冊目のエッセイ集

──『SOUNDTRACK』に続くエッセイ集が世に出た心境は?

光石:コロナ禍の初期に連載のお話をいただいて、それが終了したのが一年ほど前のこと。なのでちょっと時間的な距離があるのですが、一冊の本にまとめてもらえることになったときは嬉しかったです。協力してくださる方々との打ち合わせを重ねて、刊行の日を迎えました。やっぱり、こうしてモノとして残るのはいいですね。自宅のリビングに一冊だけ置いていて、ふと手に取ってページをめくっては、なんだか照れくさい気持ちになります。映画やドラマの自分の演技を見るのも恥ずかしいですが、文章となると、もっと恥ずかしいです。

──演じている姿以上にですか。

光石:映画やドラマの場合は、現場で完結するものだと僕は思っています。なので見返すといっても、ほとんどチェックに近い感覚です。でも文章の場合は、僕個人の内面を振り返る作業でもある。これは恥ずかしいですよ。

 改めて書くことの大変さも味わいました。「誰かの文章に似ているんじゃないか?」「無意識のうちに何かの影響を受けた内容になっていないか?」という疑問が何度も湧いてきます。だから開き直ってストレートに気持ちを綴ろうとも思うのだけど、それだと小学生の日記みたいになりかねない(苦笑)。ちょっとくらいは文学的な表現を入れたほうがいいのかもしれないけれど、それも違う気がする。「西日が射し込み……」みたいな(笑)。たくさん悩みながらでしたが、楽しかったです。

──世に出ていくのは光石さんが演じたキャラクターではなく、光石さんご自身のことですからね。等身大で、とても素敵だと感じました。

光石:自分の性格的に、あんまりカッコつけたくないという気持ちがあって。その結果、肩の力の抜けた、こういう文体と内容になったんだと思います。いまの自分の立場から何か物申すようなこともしたくなかったですし、かといって作文みたいにはしたくない。そのあたりの塩梅が難しかったです。

 それにやっぱり書いていると、「ちょっとくらいは笑ってもらいたいな……」みたいな小賢しい欲も出てきちゃって(笑)。役を演じる際、受け取った台本にはすでに言葉が記されています。それを手がかりにキャラクターをつくっていくのが俳優の仕事。でもエッセイは、真っさらな紙に筆を入れるところからがスタートです。絶えず苦戦していました。

すべてが止まったコロナ禍に、半生を振り返る機会をもらった

地元の友人に電話するなど、当時の記憶を呼び起こしながらつづった故郷・北九州のエピソード

──軽やかな筆致もそうですが、内容がバリエーションに富んでいるのも本書の大きな魅力だと思います。テーマ設定などはどのようにしたのですか?

光石:西日本新聞での連載なので、なるべく九州のことを書こうと思っていました。まずは、幼少期を振り返るところからスタート。俳優デビューの経緯についてはもちろんのこと、馴染みのたこ焼き屋や床屋なんかのことを記憶から引っ張り出してきて、友人たちに電話やメールで細かいことを確認しながら書き進めました。

──ルーツである北九州への愛はいろいろなところで語られていますが、本書を読み進めていくうちに、光石さんの原点にもっと近づけた気がします。

光石:まだ30代とか40代だったら、「故郷と決別して東京に出てきた」なんて言うのかもしれません。でももうこの年齢になってくると、そんなことでカッコつけてもしょうがない。何だかんだでずっと大切な故郷ですし、いまでは素直に好きだと言えるようになったんです。

「俳優しかやってこなかった人生だから」

──俳優業に取り組む光石さんの日常も収められています。

光石:「俳優を目指すキミへ」と題した文章を書いていますが、僕には俳優論のようなものが全くないんです。演劇の世界で修業を積んできた人間でもありませんから、演技について書くことには引け目がある。でもやっぱり自分のことを書くとなると、俳優業について書かないわけにはいきません。俳優しかやってこなかった人生ですから。撮影現場のことを書いてほしいという要望があったので、それで何本か書いています。でも現場のことを書くのも難しいんですよね。おそらく多くの人は見たことがないでしょうから、果たしてうまく伝わるものかどうか。

──たとえば、アクションシーンにおけるスタントマンとのやり取りであったり、一口に“撮影現場”と言っても、光石さんならではの視点の置き方が面白かったです。

光石:アクションシーンを撮るときには、本当に僕は何もできないのだと実感します。マネージャーにも日頃から頼ってばかりですし。この連載はコロナ禍ですべての撮影がストップしたときに始まったものですが、そもそも俳優とはいかに無力な存在なのかをここ数年で思い知らされました。

 僕たちの仕事は基本的にお声がけをいただいて発生するものなので、一人では何もできません。YouTubeなどで個人的に発信をする方も中にはいますが、僕にはやれることが何もない。そこにカメラがあって、さまざまなプロのスタッフがいて、カチンコが打たれる。そこからようやく僕の仕事が始まるんです。この事実に改めて直面し、愕然としました。僕はなんて無力なんだろうと。

 でもそんなときにこの連載のお話が来た。すべてが止まっているときに、僕は自分の半生を振り返る機会をいただいたんです。いろんな想いを文章に込められるだろうと思いました。

──光石さんの日常と俳優業は、どうしても切り離せないものなのですね。

光石:16歳からやっていますから。『博多っ子純情』のあの一回がなければ、いま頃は海外で一旗揚げていたかもしれない(笑)。でも俳優になってしまったから。やっぱり楽しくてしょうがないんでしょう。俳優以外の道を考えたことはありません。30代に入って仕事がないときでも、どうにかこうにかこの世界にしがみつこうとしている自分がいました。

 人生で初めての映画の撮影現場は、それはもう強烈なものでした。家の近所でご商売をされている大人を見たことはあったけれど、大勢の大人たちが子どものように楽しそうに働いているのを見たのはあれが初めてだったんです。あのときのことが僕の俳優人生における原体験として、いまだに心に刻まれています。

──あの時代ならではですね。

光石:70年代の活動屋さんの匂いがまだまだ残っていました。みんな豪快で、どこかガラが悪くて、でも知的なところもあって。そんな大人たちが文句を言い合ったり、喜びを分かち合っている姿というのは、当時の僕には本当にまぶしかった。みんなで同じ旅館に泊まり、夕食はみんなで宴会のようにやる。カルチャーショックを受けるような衝撃的な出会いが、今日まで続いている。あの時間をずっと求めているんです。

初めての撮影現場――その風景と憧れが俳優人生における原体験として心に刻まれているという

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