【山岸凉子を読むVol.5】名作『日出処の天子』で苦しんだのは厩戸王子だけ? 歴史に埋もれる哀れな女性3選

「こんな事があっていいはずがない
いつも女が男の餌食にされるなんて そんな事が‼」

 これはさまざまな苦しみに耐えてきた、厩戸王子(聖徳太子)の妻で毛人(蘇我蝦夷)の妹である刀自古(刀自古郎女)が心の中で叫ぶ言葉である。その言葉どおり、聖徳太子の生きた時代は女性の人格どころか、その人物が本当に存在したのかどうかすら明らかになっていないことが多く、『日出処の天子』ヒロインの刀自古も史実では生没年不詳、河上娘(作中では刀自古の異母妹)と同一人物だったという説もあるそうだ。

 刀自古は蘇我馬子の娘であり、蘇我蝦夷の姉妹、大化の改新で殺される蘇我入鹿の叔母にあたる。そして聖徳太子の妻でもある。そんな重要人物であっても、詳細が記録に残されていないのだ。次いで蘇我蝦夷と蘇我入鹿について史実を調べていて驚いたが、彼らは妻が誰であったのかも明確にされていない。

 『日出処天子』では、つい主人公の厩戸王子(聖徳太子)や毛人(蘇我蝦夷)に目がいきがちだが、ここでは作中で哀れな目に遭った女性たちを振り返りたい。本作は実話ではなくフィクションだが、当時から近世まで、このようなことが数多く起きていたのではないだろうか。

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刀自古(刀自古郎女)

 『日出処の天子』に登場する女性の中でもっとも目立つ存在だった刀自古(とじこ)。本作では毛人の同母妹であるが、彼女は序盤から兄の毛人に片思いしていた。この時代、母親が違えば兄妹、姉弟でも結婚することは可能であり、身分の高い人々にとっては当然の縁組でもあった。実際に厩戸王子(聖徳太子)の両親も異母兄妹だ。一方で同じ父母を持つ兄妹は、現在の近親相姦と同様の扱いを受けていて結婚を許されていない。現代人なら「異母でも同母でも変わらないのに」と思ってしまうが、それが当時の常識だったのだ。

 序盤、刀自古は天真爛漫でおてんばな美少女として登場する。いわゆるブラザーコンプレックスで兄の毛人にくっついていたのだが、ほどなくして彼女の運命は激変する。父(馬子)や兄と離れた地で、想像を絶する不幸に見舞われて命すら失いかけたのだ。捨て鉢になった刀自古は、兄の毛人と再会した後、自らの望みを叶えようとある行動をとり、それがきっかけとなって多くのものを失っていく。自分の息子である山背大兄王子以外のもの、すべてを。

 美しく若い刀自古は、本作でふたりの男性を愛する。片方は決して愛してはならない相手だった。しかしもう片方は……。本当に愛した男性たちに女性として愛されることがないと実感した刀自古の、泣きながら高笑いをする姿は読者である私たちの心をえぐる。また、刀自古は何度も死のうと試みている。しかしそれすら未遂に終わってしまう刀自古の孤独は、物語が終わっても死ぬまで続いていくのだ。

 唯一救いがあるとすれば……これは、あくまでも私の推測だが、作者の山岸凉子の、刀自古に対する哀れみが感じられることだろうか。この点は毛人が愛した布都姫と大きく異なる。私の手元にある文庫版の『日出処の天子』(1994年初版発行/白泉社文庫)では山岸凉子が巻末の氷室冴子との対談で、布津姫の存在について「必要として、ただ単に道具として出てきたにすぎません(笑)」と語っている。私が布津姫ではなく刀自古に感情移入をした理由も、そこにあるような気がした。

大姫(菟道貝蛸皇女)

 厩戸王子(聖徳太子)の妻は複数いる。本作においては、その中で最初に妻にしたのが大姫、次が刀自古である。大姫は、父に敏達天皇、母に推古天皇を持ち、際立って身分が高い。推古天皇は厩戸王子の天才的な能力を見抜いて、大切な娘を厩戸王子に縁づかせたのだろう。

 刀自古ほどではないにしても、大姫にも妻として女性として、これ以上ないほどの屈辱が襲いかかる。ことさら哀れなのは、「刀自古は厩戸王子の子を産んでいるのに、自分は手も触れられていない」と彼女が思い込んでいることだ。これは誤解なのだが、離れて暮らす厩戸王子、刀自古、大姫の三者間で、その誤解を解くきっかけは得られなかっただろう。また刀自古と対面したとき、彼女が非常に美しかったことも大姫の苦しみに拍車をかけたはずだ。

 大姫も刀自古も、本来なら厩戸王子の形ばかりの妻にならざるを得なかった者同士、苦しみを分かち合えたのかもしれない。当時は高貴な女性が離縁をすることすらままならなかった。まさに男性社会の抑圧による犠牲者となった大姫と刀自古は、いっしょに暮していたのならシスターフッドのような関係性を持てただろう。しかも厩戸王子は、最後に自分の子を新たな妻に産ませようとしていて、史実でもこの妻は厩戸王子の子を数多く産んでいる。

 刀自古は自分がなぜ夫に愛されないのか、自分を顧みて理由づけすることができた。しかし大姫にはそんな理由はない。非常に高貴な身分でありながら、夫に疎まれたショックは刀自古以上のものだっただろう。

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