元・国会図書館員が語る、“調べる技術”の磨き方 「人類が現在持っている知識は、かなりの部分が資料になっている」

資料がなければ作ってしまえばいい

――レファレンス司書をしていた際に、具体的にはどんな質問がありましたか。

小林:担当していたのは歴史と文学、芸術、その他でしたが、「その他」を担当しているので別の部門でわからない質問もきました。例えば「平安京の住宅地図が見たい」という質問。そんなものが存在するのなら見てみたいですが(笑)、まず返答として考えられるのは「住宅地図は昭和30年代から作られたものなので、平安時代にはありません」というもの。これは正しい答えではありますが、実は「これを見てください」という資料は別にある。

 それが「国文学便覧」の類。高校生が国語教育の副読本として使うものですが、そこに平安京の地図がおおまかですが載っている。というのも、この本は「源氏物語」を理解してもらうために国文学者が作っているんです。問い合わせた人も「平民の誰々がここに住んでいた」という細かい地図ではなくて、文献を理解するための回答がほしいはず。つまり、本は本を出す側の都合で作られているし、読者は読者で勝手に疑問を抱いちゃう。その配線をうまくつなげてあげればいいんです。

――出版側が意図していないところに、とある読者にとっては重要な情報がある場合もある。その橋渡し役となるのが、レファレンス司書なんですね。

小林:そうなんです。入荷したらジャンル順にばっと並べて「あとは勝手に読んでね」というのが普通の図書館。地図の棚で探せば普通の答えは書いてあるし、人件費もかからなくていい。それ自体は悪いことではありません。ただ、それでも答えが出ない問題もあって、且つ、あるところに回答はある。それを教えたり、一緒に考えるのがレファレンスの仕事でした。

――なるほど。

小林:もしくは資料がなければ作ってしまえばいいんです。例えば、よくある質問に「〇〇という雑誌の発行部数を知りたい」というものがありました。今でさえ「印刷証明付部数」や「公称部数」がありますが、戦前の情報はないので、以前は私も古いものについては「関係者の回想録に出なければわかりません」と答えていました。

 でも書庫のなかをブラウジング――まぁ散歩ですね――していたら、戦前の警察資料「出版警察報」を見つけたんです。戦前は内務省が検閲をしていて、みだらな内容とか、左翼や右翼などの思想の出版物を発売禁止にできました。だから差し押さえる時に版元に何部刷ったかを聞いていたんですね。特に昭和の七年頃からは検閲が厳しくなって、雑誌も新聞も単行本も発行部数をまとめて内部資料として発表していたんですよ。

 それを見つけてからは質問に対して、まず発禁になっているかを調べることにしました。該当していれば「昭和○○年の何月号が発禁になっているから『出版警察報』の押収記録をご覧になるといいですよ」と答えていましたね。

――まさに「答えはあるところにある」といったお話ですね。

小林:その「出版警察報」を抜き出して五十音順に並べたのが、私の最初の著作である『雑誌新聞発行部数事典―昭和戦前期 附.発禁本部数総覧』(2011年)なんです。これによって昭和5年~17年の発禁になった号の部数が全部わかる。発禁になるかならないかはほぼアトランダムなので、結果的にサンプリング調査として成立しているんです。だから「実業之世界」という雑誌を始め、何度か発禁になったものは発行部数の増減が見えてきます。資料がなければ作ってしまえばいいわけです。

小林氏が執筆または携わった書籍

――図書館を辞して、出版研究の道に進んだのは何故でしょうか。

小林:レファレンス司書という仕事は、どんな質問にでも大体60~70点の回答はできます。ところが、100点の答えは本当の専門家、文学者や研究者にしか出せない。でも、誰も研究してないジャンルなら話は別です。例えば、江戸時代の出版の歴史は国文学の先生が専門家になっているんです。でも、近代の出版の歴史については、誰も専門家といえるような状況ではなかったんです。

 そして、専門家がいないところで70点の回答ができる人が現れると、その人が専門家になってしまう。先ほど挙げた『雑誌新聞発行部数事典―昭和戦前期 附.発禁本部数総覧』を出版したことで、結果的に自分も在野研究者になってしまったんです。そして、私自身もそちらの研究の方が面白くなってしまいました(笑)。

 その後、近代出版研究所を設立して『近代出版研究』を創刊したり、今回の『調べる技術』を刊行したりしたのですが、その反響は思いのほか大きいです。私の経験や知識もまた、必要とされているところでは必要とされるのだと実感しております。

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