宇多田ヒカル×『ちびまる子ちゃん』の邂逅は必然だった? 「パッパパラダイス」徹底解剖、“かつての子供たち”を慈しむ眼差し
宇多田ヒカルとさくらももこ、シニカルかつ愛に溢れた“視点の共通項”
宇多田ヒカルがTVアニメ『ちびまる子ちゃん』(フジテレビ系)のエンディング主題歌を今年3月29日放送回から担当している。言われてみれば確かに、宇多田の書く歌詞や、あるいは何気ない普段の暮らしを発信するSNSの視点といい、日常を過ごしながら目にするものにおかしみや新鮮さ、時にままならなさを感じ取って、自分の中の感情や些細な変化をそのままスルーしないというスタンスには、“さくらももこ的”な眼差しを感じなくもない、とすぐに思い至った。そして、それ故に宇多田の音楽は老若男女を問わずリアルに感情移入ができ、共感を集めるのだろう。裏を返せば、いくら才能に溢れていようとも宇多田自身は決して神や聖人ではなく、良くも悪くも凹凸のある、ありふれた人間の一人として暮らしているからこその所業であるとも言えるはずだ。
実際、宇多田自身もまたこのオファーに寄せたコメントで、さくらももこ作品からの影響を公言し、「日常の見逃されてしまいそうな小さな場面に起こる呼びようもないけど誰しもが感じたことのある気持ちの繊細な描写、どんな時もユーモアと好奇心を忘れない鋭くも救いにも溢れた眼差し、混沌とした世界と人間のカッコ悪さや受け入れ難い部分をも包み込む優しさ」(※1)を教えてもらったと語っている。さくらももこもまた生前、宇多田の音楽を愛聴していたことから今回のオファーに至ったそうで、目には見えないところでその感性を互いに受け渡し合った関係なのだと思うと胸が熱くなる。なお、「パッパパラダイス」の「パッパパラ」という部分は、〈パッパパラパ〉でお馴染みのオープニング主題歌「おどるポンポコリン」へのリスペクトを込めたオマージュかと思われる。
ところで『ちびまる子ちゃん』は、ご存知の通りさくらももこ自身をモデルにした作品であるが、いわゆる一般的な日常系エッセイと比べると異質な作品だと個人的に思っている。主人公の周囲の人間が皆それなりに“クセ強”で、なんならそれなりにエゴが強く描かれているからだ。もちろん作品の登場人物はモデルとされる人物より誇張されてはいるだろうが、とはいえ、そのように自分自身や他人の良いところもカッコ悪いところも割合はっきり見せてしまうところは『ちびまる子ちゃん』、ひいてはさくらももこ作品らしさそのものとも言える。そしてまる子は、そんな人たちによって繰り広げられる日常を、ユーモアと少しばかりのシニカルさで切り取りながら、なんだかんだでまるっと愛してしまうところがある。そこは、宇多田の音楽の視点ともよく似ている気がする。
楽曲はすでにエンディング主題歌として放映されているため、耳に馴染んでいる人も多いかもしれない。「ぼくはくま」「パクチーの唄」など、知育的な楽曲や童謡風の楽曲などもレパートリーに持つ宇多田なので今回もそのような路線かと思いきや、蓋を開けてみると80年代のディスコチューンを下敷きに、ファットなベースサウンドと華やかなホーンセクションを伴ったモダンなファンクナンバーという印象。低音を薄く乗せるコーラスの重ね方にはクラブライクな洗練を感じさせるが、どこか昔懐かしさも漂う軽快な仕上がりだ。これは「Mine or Yours」から共通した方向性なので、ズバリ今の宇多田自身のモードなのかもしれないが、同時に「BADモード」をよりフィジカル感の強いサウンドにコンバートしたような印象もあって、単に『ちびまる子ちゃん』の曲としてだけでなく「宇多田ヒカルの新曲」としてもしっかり楽しめる楽曲に仕上がっていると言っても過言ではない。
ドゥーワップ風のコーラスを何カ所かに組み込んでいる点には遊び心も滲み、ヴァースにあたる部分にはチープなオルガンの音で伴奏を入れて子供らしさを表現しているようにも感じられる。宇多田も先ほど挙げた投稿で、この楽曲に関して「世界の子どもたち、そして大きくなった子どもである私たち大人みんなに」(※1)とも述べており、その歌詞では、大人の視点から子供を応援しながらも自分自身への想いも時折交じり、そのように視点が行き来することで、自分の中に居る“かつて子供だった自分自身”にも語りかけるような構造になっていることがわかる。番組を見ていた子供が今や大人になって、人によっては自分の子供と同じ番組を観ているかもしれない……そんな長寿番組ならではの特性を念頭に置いたこの“入れ子状”のような構造の歌詞によって、誰もが自分ごととして受け取れるように書かれている点が非常に秀逸だ。