浜野はるき、“クズな恋愛”を昇華した赤裸々なラブソング 中洲のキャバクラから無一文で上京、音楽にかける想い

 福岡県出身のシンガーソングライター 浜野はるきが、7月24日にEP『LovE ToXic』を配信リリース。同作には6カ月連続シングルとして配信された「ギジコイ」や「Princess GaL」のほか、新曲「Dear my ex.」を含む7曲が収録されている。

 モデルやアイドルグループ、Bリーグによるダンス&ボーカルグループに所属するなど、幼少期から芸能活動を展開してきた浜野はるき。グループ活動終了後は、福岡県の中洲のキャバクラで2年間働いたのち、シンガーソングライターとしての活躍の場を求め、親の反対を押し切って上京。キャバクラ在籍時代の実体験や心境を楽曲に落とし込んだ「中洲ロンリーナイト」がバズを生み出し、そこから「女でいたい」「朝帰り」「ギジコイ」といった女性の共感を呼ぶ楽曲で認知を広げている。

 過去の恋愛や自身の人生を彼女らしく赤裸々に綴った楽曲が、新作EP『LovE ToXic』にも収録。様々な恋愛と人生経験を音楽に昇華し、どんな困難をも乗り越えてきた浜野はるき。そんな彼女の幼少期から現在までの歩み、音楽に人生をかけるシンガーソングライターとしての覚悟を聞いた。(編集部)

この世の男性は全員浮気する

ーー音楽を好きになったきっかけから聞かせてください。

浜野はるき(以下、浜野):お母さんと安室奈美恵さんのライブを観に行って、歌とダンスができるようになりたいなと思って、10歳の時にエイベックス・アーティスト・アカデミーに通い始めたのが最初です。でも実はその少し前にイオンモールを歩いているときに地元(福岡)のモデル事務所にスカウトしてもらったんです。9歳から15歳までは12人組のアイドルグループに入ったんですけど、センターにはなれず、メインボーカルにもなれず、5年間ずっと端っこで踊っていました。

 そんな中学生の頃に椎名林檎さんの曲に出会いました。椎名林檎さんは男女のキラキラした恋愛じゃなく、リアルを描いてるところが刺さって、毒や本能的な部分を一切隠さず書いているところがかっこいいなと思うようになりました。それからノートの端っこに歌詞のようなものを書くようになったんです。最初はポエム感覚だったんですけど、「それ、曲にできそうだね」っていう友達の一言で、15歳の終わりくらいにギターでメロディをつけたのが、最初のオリジナル曲でした。

ーー歌とダンスだけでなく、楽器もやっていたんですか?

浜野:3歳から18歳までピアノを習っていました。ただ、お母さんに言われて習っていただけなので、歌やダンスほど楽器は好きではなかったです。でも、今はそのおかげで曲が書けているので、めちゃくちゃ感謝してます(笑)。ギターはおじいちゃんがやっていたみたいで、家に飾ってあったんですよ。そのギターで小さい頃から遊んでいました。コードは全然わからないけど、遊び感覚で弾きながら歌ってみたのが、19歳の時にリリースした「私の慷慨とMONOSASHI」という曲です。

ーー「慷慨」=「こうがい」という言葉を初めて知りました。「世間の悪しき風潮や社会の不正などを怒り嘆くこと」という意味なんですね。これを15歳で書いているんですね。

浜野:私、小さい頃から読書が好きだったんですけど、変な本ばっかり読んでいて(笑)。まともな本は『人間失格』くらいで、それを読んでいる時に書いた曲でした。その頃からもうすでに大人の汚さを感じていて。大人は都合のいいことばっかり言うなと、尖っていた時代に書いた曲ですね。

ーー他にはどんな本を読んでいたんですか?

浜野:六法全書と官能小説を読んでいました。今後、自分が生きていく世界のルールは知っておきたいなっていうのと、10代後半はアイドル活動をしていたので、恋愛というものを19歳まで知らなくて。駄目だからこそ触れたいなっていう思いが強かったんだと思います。

ーー二度目のアイドル活動というのは?

浜野:ライジングゼファーフクオカというBリーグ(※バスケットボールのプロリーグ)のチームが、チアではなく、エイベックス監修の上で、ダンス&ボーカルグループを作ることになって。エイベックス・アーティスト・アカデミー内のオーディションに受かって、初めてセンターになれました。ただその間も曲作りはしていて。10代のうちは思っていることを人に伝えるのが苦手だったので、自分でノートに書いた言葉をメロディにするのが私の一番の自己表現の場だったように思います。その頃は、リリースはせずに、恋愛じゃない曲ばかり書いていました。

ーー2ndシングル「I miss you」をリリースしたのが19歳の終わり頃ですね。

浜野:そうですね。その頃は割と時間が空いたんですけど、ダンス&ボーカルグループが終わった後に初めて恋愛を経験して。本当にダメな恋愛だったので、それを歌にして出しました。

ーーダメな恋愛でしたか。

浜野:その人には、1カ月に1回のペースで、半年間で6人に浮気されちゃって。今も純粋ですけど、あの時はもっともっと純粋だったんですよ。この世の男性は全員浮気すると思っていたので、それならこの人でいいと思って書いた曲です。今思えば、ただ単に顔面がタイプだっただけなんですけど(笑)、世の中に男性はこの人しかいないと思っているくらいのめり込んでいました。

ーーのちの「最低な君」や「Dear my ex.」にも登場する人ですよね。その曲の話は後でお伺いするとして、21歳で上京するまでに2年間ありますね。

浜野:福岡では絶対に味わえない世界があると思ったから上京しました。上京した福岡の先輩がデビューしていく姿を見ていたので、東京に来ればすぐにメジャーデビューできると勘違いしていたんです。10代の私は夢を見ていたというか、なめていたんです。ただ、お母さんに「上京するなら一切お金の融資もしないし、もう一生帰ってこないでください」って言われて。「じゃあ、もう1人で稼いでから上京するけん」って大喧嘩しました。

ーーでも、ピアノやダンスを習わせてくれたり、安室ちゃんのライブに連れて行ってくれたのはお母さんですよね。

浜野:お母さんの趣味だったのもあって芸術的なことに触れさせてもらいました。母はすごく過保護で、うちの子が一番かわいいと思ってるタイプでした。でも、私がそこに本気になっちゃったから、「お母さんは育て方を間違えました」って言うようになりました(笑)。実家は全員医療系の家庭で、私も医者になる道を用意されていたんです。だから、最初は医学部に行くために勉強を頑張っていたんですけど、だんだん勉強することに疑問を持ち始めて。家族のみんなと同じ道をたどっていくのも正直気が進まなかったし、とにかくお母さんの手から離れたかったっていうのが大きいですね。「お母さんが敷いたレールに乗りたくない」って喧嘩して。上京資金を貯めるために、中洲で2年間働きました。

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