【浜田麻里 40周年インタビュー】第2弾:制作拠点をアメリカへ移した意図とは? 現地での刺激的なセッション、ヒットシングル誕生などを振り返る

 日本におけるヘヴィメタルシンガーのパイオニアである浜田麻里。2023年にデビュー40周年を迎える彼女は、今も最前線でその圧倒的なハイトーンボーカルを響かせ続けている。リアルサウンドでは「浜田麻里 デビュー40周年特集」と題して、全6回の連載インタビューを展開中。幅広い音楽性の根源や制作拠点の変遷など、40年間を振り返って、ターニングポイントとなった出会いやライブ、各アルバムの制作秘話から、活動に対する赤裸々な苦悩・葛藤まで、貴重なエピソードも交えながら存分に語ってもらった。第2回は、アルバムのレコーディング拠点をアメリカに移すとともに、『Heart and Soul』や『Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。』といった代表的なヒットシングルも生まれた1987年〜1990年ごろまでを振り返る。(編集部)

浜田麻里 デビュー40周年特集

2023年にデビュー40周年を迎える浜田麻里。日本におけるヘヴィメタルシンガーのパイオニアである彼女は、今も最前線で圧倒的なハイ…

新たな刺激を求めて渡米 ドタバタでツアーに挑んだ秘話も

――『In The Precious Age』(1987年9月)からは、ロサンゼルスにて、現地のミュージシャンを起用してレコーディングを進めるという体制になっていきました。ガラリと制作環境を変えた心持ちは、どのようなものだったのでしょう?

『In The Precious Age』

浜田麻里(以下、浜田):まずはそれまでのマネージメント事務所から離れ、体制を一新する必要がありました。前作からそれを見越して計画を立ててきたんです。一気に新しい環境に向かえるようにと。事務所を離れるということは、内情的に同系列だったビーイングでのアルバム制作をやめることを意味しました。次に向かう先は、もう日本にはないなという直感があったんです。ビクター(エンタテインメント)の協力を得ながらではありましたが、独立独歩の第一歩は、アメリカでの制作環境の構築でした。

――ちょうど世界的には、アメリカを中心として、ヘヴィメタルが音楽ビジネスにおいても一大潮流になっていた時期でもあります。

浜田:それもベーシックにあるのかもしれないですけど、私が環境を変えるときは、このままでは自分が成長する伸びしろは限られてるなと感じたときなんですよね。あのときは、とにかく本物のプロデューサーというのがどういう仕事をするのか見てみたかったし、フラットなところから客観的に自分をジャッジしてくれる人が欲しかったんですよ。例えば、日本の俳優さんや映画監督さんが、(スティーヴン・)スピルバーグと仕事がしてみたい、と夢見るような、そんな気持ちに近いというか……。その後の90年代には、日本でも音楽プロデューサーという仕事が前面に出てくることも増えていきましたけど、あの頃はほぼいなかったんじゃないかと思います。

 そう考えたとき、自分の中では、やっぱりアメリカのプロデューサーだなと。(マイケル・ジャクソンのプロデューサーとして)ニューヨークのクインシー・ジョーンズなどが名を馳せた時代です。ちょうどLOUDNESSがアメリカでもツアーをやるようになっていましたよね。その頃、私のコンサートの舞台制作をやっていた人がLOUDNESSを手掛けていたこともあって、私も彼らのアメリカのツアーを観に行ったんですよ。AC/DCのオープニングアクトとして廻っていたときだったり、サンディエゴでCinderellaやPoisonと一緒にやったライブも観ましたね。時期は多少前後するかもしれませんが、ロサンジェルスで彼らの現地スタッフとの食事会にご一緒させていただいた際は、プロデューサーのエディ・クレイマーとテーブルが一緒で、少しお話しする機会もありました。そういう経験が前哨戦となり、アメリカがより近くなっていきました。

――なるほど。

浜田:ビクターのA&Rが、何人かピックアップしてくれた私のプロデューサー候補の中で、先方も興味を持って応えてくださったのがロン・ネヴィソンでした。Heartをリバイバル的に復活させ、新たな音源で大ヒットさせた人です。もちろん即決でした。Heartのみならず、Whitesnakeなどにしてもそうですが、70年代にヒットしていたバンドが、80年代になってまた火がついた時期で、現地のラジオやMTVでも、それらのアーティストの楽曲がこれでもかというくらいに流れて、幅を利かせていた時代でしたので、プロデューサーの手腕・存在にも注目が集まっていました。私も当時はワクワクして渡米しましたね。

 完全に一人で渡米したのは初めてで、英語もろくにできない日本人が空港に着いたのはいいけれど、右も左もわからないわけですよ。ビクターの駐在社員が予約してくれていたホテルの場所もわからず、今のようなネットも携帯電話ももちろんない時代ですから、たった一人で途方に暮れました。ビクターの伝手で、アミューズ・アメリカからケアする人(日本人)を派遣してくれるはずだったんですが、アメリカの空気に染まった人たちなので、都合がつかなければ迎えにもこない、そんなドライな感じなんです(笑)。ホテルの住所から場所を確かめてみたら、マリブ・ビーチだということで。空港から車で1時間半かかる場所だとわかって、どうしようかと。まずは向かってみたんですが、途中で引き返しました。いざという時のために連絡先を控えておいた知人にやっとのことで連絡がついて、ハリウッドの繁華街のホテルを押さえてもらったんです。そんなチグハグなスタートで、私の最初のアメリカ滞在は始まりました(笑)。

 結局、ロン・ネヴィソンは前のプロジェクトが長引いて、スケジュールを押さえるのが厳しくなっていたので、当時彼の右腕のような役割だったマイク・クリンクを起用することになったんです。そのうち彼も、Guns N' Rosesのプロデューサーとして大ブレイクして、ロン以上の有名プロデューサーになっていったわけなんですけれどね。当時マイクはまだ小さい平屋造りの一軒家に住んでいて、ご自宅にも通い、一緒にアレンジを吟味したり、曲を探したり、現地で2カ月ぐらいはやっていたんじゃないかな。彼の人脈から、TOTOのジェフ・ポーカロやマイク・ポーカロ、マイケル・ランドウなどとも仕事をすることになりました。まずはダン・ハフというギタリストのダビングがあって……。

――Giantのギタリストとしても知られていますね。

浜田:そうです。目の前で彼が弾く姿を見て、やっぱり凄い、何かが今までと違うなと思ったんです。たぶん、手の大きさやグリップの強さから生み出される微妙な音程のずらし方、揺らし方とピッキングの柔軟さ。あえて言葉にするとそんな感じです。マイケル・ランドウにしてもそうで、それがなんとも言えない色香を放つコード感を醸し出すんです。そういった体験もあって、スタジオミュージシャン系のテクニシャンの演奏にグッと気持ちが引き込まれて行きました。ジェフ・ポーカロにも、クリックから意図的にリズムを揺らす絶妙なリズム感覚があって、「これは参った〜」となったんです。それは私の音楽性にも大きく影響しましたね。

――麻里さん自身にとって、創作をする上ですごく刺激的だったということですね。

浜田:はい。ご存じのように、私は他の人の音楽をまったくと言っていいほど聴かないんです。もちろん、デビュー直前の頃などは状況を知るために、マイナーなものも含めてハード系の音楽を聴きあさった時期もありましたけど、アメリカに行くようになってからは、そういったスタジオミュージシャンを知るために、一気にAOR系の音楽を聴くようになっていった気がします。環境としても刺激は大きかったですね。隣のスタジオでは、Kissやリンゴ・スター、Van Halen、トレヴァー・ラビンなど、お話しし切れないほど多くの世界的アーティストが入れ替わり立ち替わりでレコーディングをしていました。Cheap Trickにはスタジオに入れてもらい、レコーディングを見せてもらったりもしましたね。そんな光景が日常になっていきましたので、自ずと目指すものや志が高くなるのは、私でなくとも当然のことだったと思います。

――『In The Precious Age』では、ボビー・コールドウェルがコーラスで参加しているのも象徴的ですよね。

浜田:とっても気さくなおじさんで。歌が器用なので物真似がすごく上手で、いろんなシンガーの真似をして歌ってくれたりして、ボビーとのレコーディングは楽しかったです。それから、アレンジをやってくれたキーボーディストのビル・クオモは、Whitesnakeのヒットアルバム(1987年の『Whitesnake』)のアレンジもやってた人なんですが、『In The Precious Age』に関しては、彼がアレンジを取り仕切る形になりました。狼をペットとして飼っている広いご自宅にお邪魔してアレンジを進めたんですが、記憶が狼に埋め尽くされて、作業がどうだったか忘れてしまいました(笑)。

 でも1点、ここで私にとって大きな収穫がありました。同時に少しショックでもあったんですけど、日本にもファンが多いハード系のビッグアーティスト/バンドを大ヒットさせるために、とても商業的な作品づくりがされていることを知ったからです。(ハード系バンドの)ファンの方にとっては、少しガッカリするような話になってしまうかもしれないので、多くはお話できないんですけれども。彼の存在からもわかるように、爆発的に売れる要素を踏まえて外部でアレンジが施され、外部でプロデュースされている例がほとんどだったんですよね。場合によっては、有名なバンドメンバーが実は演奏をしていないケースもたびたびありました。もちろんエンタテインメントですから、悪いこととは思いませんでしたし、各バンドの事情もそれぞれですが、私には、それを裏方として支えているスタジオ系の敏腕ミュージシャンがとてもかっこよく見えました。彼らの優れたテクニックや引き出しの多さにどんどん惹かれていったんです。

――それこそHeartにしろ、Whitesnakeにしろ、もっと言えばAerosmithにしろ、往年のバンドがリバイバル的に売れた背景としては、そういった制作陣に囲まれていた事実はすごく大きかったですよね。

浜田:そうですね。私のアルバム『In The Precious Age』に関しても、それまでの日本でのマイナーコードで制作したウェット系の音楽作りと比べると、少々ライトに感じるカラッとしたアメリカンな音作りになったことで、かなりサウンドイメージの変化はあっただろうと思います。私の場合は、“売れるための曲作り”を目指していたというのとは根本的に違うんですけれど、当然、参加しているミュージシャンが全員アメリカのスタジオ系の人たちに落ち着いたため、彼らの個性が作品に反映されていきました。実は、びっくりするようなバンド系のミュージシャンにも一度は参加してもらったものの、残念ながら期待に到達できずでテイクを残せなかったり。

 結果として、アメリカに制作拠点を移したことはその後の流れを見ても、正解に近い選択だったと思います。回り道もたびたびしましたが、多くの海外ミュージシャンとのコラボで得た実践的なプロデュース方法が、その後の私を形成していったと思うからです。ただ1点、アメリカにも、私にとってのスピルバーグはいなかった。それは事実です。でも、その事実を知ったことで、逆に自分のジャッジに自信が持てるようにもなったんですよ。そういえば、その頃だったかな……実はツアーがあるっていうのを、開始1週間ちょっと前に知ったことがあったんです。

――え!?

浜田:アメリカでは長いこと1人だったんです。会うのはマイク・クリンクだけみたいな日々を過ごしました。日本のスタッフもそれぞれ家庭を持ち始めた時期でしたから、誰も私の長期滞在に同行したくないわけです。たまにチラッと来て、すぐ日本に帰っていく、そんな中ですから、スタッフも怖くて言えなかったんでしょうね(笑)。私の部屋にマネージャーが訪ねてきた際、キッチンに不自然にページが開かれた彼のスケジュール帳が置いてあって、「何これ?」と(笑)。今だから笑い話にできますけども、当時は情けないやら、腹立たしいやらで。急遽レコーディングを中断して帰国したのは、全国ホールツアーが始まる1週間前でした……。やっと独立して、ここから自分なりの心意気を見せていきたいと意気込んだはいいけれど、マネージャーすらついて来てくれない……自分の無力さを笑うしかないですよね。私が意気込めば意気込むほど、それについて来れないスタッフとの心の距離は離れていく一方だったのかもしれません。そこから、毎日徹夜するような勢いで、コンサートの内容を作っていきました。サポートバンドがパーマネントに近かったおかげでなんとかツアーが始まりましたが、今では考えられない話です。

――本当にそうですね。マイケル・ランドウは、基本的にその後の作品に恒常的に参加するミュージシャンになっていきますね。

浜田:大槻(啓之)さんもそうですし、私の場合、「この人いいな」って一度なると、やっぱり長く一緒にやることが多いですね。ランドウ氏のギターが素晴らしいと感じたのはもちろんですが、当時の彼はとても穏やかで、辛いことも多いレコーディングの日々の中、癒しをくれる優しいお兄さんだったんですよね。

――大槻さんで言えば、次の『LOVE NEVER TURNS AGAINST』(1988年6月)では作曲するケースがすごく増えてますね。

浜田:大槻さんの作曲がノリにノッてきたんです。もともと大槻さんはとても寡作で、一曲に時間が掛かるタイプなんですよ。でもこの頃は少し違いましたね。私のツアー中に、ビクタースタッフが率先して大槻さんにコンタクトを取って、代わりに作曲の依頼をするようになりました。もちろん音楽的なやり取りの際は、私自身が時間を作ってましたけど。

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