syrup16gの音楽には乾いたユーモアがある 過去作品配信解禁を機に考えるバンドの魅力

 今になって思う、生きることは「失うこと」の連続なのだと。飯を食い、仕事をし、恋に落ち、そして、失う。どんな幸福な景色も、一分一秒と時間が過ぎれば、それはすべて過去となり、失われる。人は失う。失って失って失って、失い続ける。しかし、人は「ない」ものを失うことはできないのだ。「ある」ものしか、人は失うことができない。syrup16gの曲には、すでに失われてしまったかもしれない、しかし、そこにたしかに「あったもの」の美しさが刻まれていた。たとえば、「センチメンタル」の切なくも甘美な旋律は、青春期の身を焦がすような恋に身を投げ入れたことのある人間にしか生み出しえないものだ。「My Song」のライナスの毛布にくるまれるような穏やかさは、愛する人と裸で身を寄せ合う、その刹那の安堵を知っている人にしか表現しえないものだ。『HELL-SEE』に収められた「シーツ」や「吐く血」といったストーリーテリングの才が際立つ名曲は、人が人を失うことの悲しみの奥から、「個人」の生の、小さくて尊い光を浮かび上がらせるようだ。それらすべての美しさが、たしかに、そこには「あった」のだ。

 生まれたからには負け犬で、それでも美しいと思える瞬間がたしかにあって、それを結晶のようにして時折眺めながら、擦り切れて、失って、疲れて、汚れて、生きていく。迷いながら、戸惑いながら、手のひらから零れてしまいそうな「明日」を、なんとかすくい上げていく。正しくなかろうが、生産性がなかろうが、そうやって生きていく。そんな生き方を、あなたは笑うだろうか、どうだろうか。

 しかしまぁ、笑われたっていいのだ。syrup16gの音楽にはいつだって乾いたユーモアがあって、それがなによりの魅力になっている。この十数年の間に、いろんな人たちとsyrup16gの話をしたが、このバンドを「あの深い絶望が~、闇が~」と語るおセンチな人たちとは友達になれなかったが、「シロップって、笑えるからいいよね」と語り合える人たちとは友達になれた。この原稿を書くことになり、Spotifyの画面にずらっと並んだsyrup16gのアルバムを聴き返す行為は、自分がこれまでどうやって生きてきて、そしてこの先、どうやって生きていくのかを改めて見直すような作業で、嬉しいような情けないようなで笑ってしまった。

■天野史彬(あまのふみあき)
1987年生まれのライター。東京都在住。雑誌編集を経て、2012年よりフリーランスでの活動を開始。音楽関係の記事を中心に多方面で執筆中。Twitter

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