香月孝史『アイドル論考・整理整頓』 第二十二回:アイドルと『疲弊の物語化』
欅坂46の躍進と反響から考える、アイドルという「総合芸術」の可能性
2017年末の『NHK紅白歌合戦』で欅坂46が披露した「不協和音」は、番組内コラボのパフォーマンスも含めて強いインパクトを残した。「不協和音」は、欅坂46が2016年の同番組初出場時に披露した「サイレントマジョリティー」がもつレジスタンスのテーマを、さらにストレートに押し進めた楽曲である。「不協和音」が2017年の欅坂46を代表する楽曲になったことで、レジスタンス的なイメージは、このグループのトレードマークとしていっそう印象づけられた。
そうしたイメージは、時にいささか直接的すぎるほどに「抵抗」や「ロック」といったフレーズを呼び起こし、各所で欅坂46が論じられる折にはそれらの言葉がしばしば用いられた。もっとも、昨年10月リリースの最新シングル『風に吹かれても』や、1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』に収録された楽曲を総覧すれば、このグループがそれほど単色で語れないことは容易に見てとれる。けれども、欅坂46を語る言葉はやはり、このグループが表現するカウンターとしての身振りへと収斂していくことが多かった。
また、欅坂46をめぐるこうした語りは、アイドルシーンにおいて時折頭をもたげる「アイドルらしくない」という言葉をも再び呼び起こした。やや先の時代を思い返せば2010年代前半、AKB48グループが覇権を確かなものにする中で、それら48グループに対するカウンターの気分もはらみつつ、ももいろクローバーZやでんぱ組.incなどのグループが称揚される際の常套句として、「アイドルらしからぬ」という言葉はあった。
そうした議論は、ときに「アイドルらしからぬ」アイドルグループを、「アイドルではなくアーティスト」として論じる方向へと派生していく。ただし、それら「らしからぬ」論や「アイドル/アーティスト」という不自由な二項対立は、往々にして実態に沿わない「アイドル」のステレオタイプにもとづいていること、あるいはそうした発想にアイドルというジャンルを軽んじる姿勢がうかがえることなどが指摘され、時のアイドルファンから批判されてもきた。アイドル自身がアイドルであることの誇りをさまざまにアウトプットできる2010年代の環境も相まって、そのような語りはやがて、ある部分までは止揚されたかにもみえた。
しかし、レジスタンスのイメージに先導された欅坂46の躍進は、上述のようなかつての「アイドルらしからぬ」にまつわる議論を、いくぶん素朴なレベルで再度召喚した。あるいは、ジャンルの外にまで届くほどのインパクトをもつということは常に、そうした喧騒やノイズと不可分なものなのかもしれない。
しかし、欅坂46というグループの革新性は、レジスタンスのイメージに回収されてしまうほど狭小なものではない。
欅坂46のデビューシングル『サイレントマジョリティー』が急速に世の中に届いたのは、楽曲に描かれたテーマそれのみによるものではない。アイドルというジャンルが、さまざまなコンセプトやストーリーの依代として豊かな土壌を確立している今日、「抵抗」や「ロック」的な姿勢それ自体は、アイドルにとってさほど新鮮というわけではない。欅坂46の特性は、その楽曲をもとにしたドラマティックな振付による群像の表現、さらには衣装、MVなどを含めた総合的なアートワークの水準の高さにあった。それらいくつもの要素が総合的な表現物として統一感をもって提示されたからこそ、その器の上にのった「抵抗」のイメージは鮮烈なものになり、世の中を驚かすことができた。
そのことを考えるとき、『サイレントマジョリティー』に関して注目すべきは、カップリングとして収録されたメンバー全員参加楽曲「キミガイナイ」や「手を繋いで帰ろうか」ですでにみせていた振り幅の広さであった。「キミガイナイ」の静的なイメージも、「手を繋いで帰ろうか」の軽快なラブコメディ的テイストも、表題曲「サイレントマジョリティー」に導かれたパブリックイメージとは大きく異なる。けれども、時に演劇性を強めつつ群像を効果的に用いた振付で楽曲の世界観を豊かにしてゆく手つきは、「サイレントマジョリティー」でみせる総合的な表現と根を同じくするものだった。