森高千里がたどり直す“変化の時期”ーー歌手デビュー30周年、3ツアー再現ライブの意義とは

 今年で歌手デビュー30周年の森高千里が『TOMORROW NEVER KNOWS』と題して、人気絶頂期のツアーのセットリストを再現するライブを開催する。10月の3公演においてそれぞれ、1991年の『ザ・森高』ツアー、92年の『ROCK ALIVE』ツアー、93年の『LUCKY  7』ツアーの選曲で歌うのだという。約25年前の再現である。

「ザ・森高」ツアー1991.8.22 at 渋谷公会堂

 1999年の結婚後、子育てなど家庭優先で芸能の仕事をセーブしていた森高は、デビュー25周年の2012年に本格的に音楽活動を再開した。以後はアーティストとしての取り組みだけでなく、テレビの音楽番組のMCも務めるなど、メディアに露出する機会が増えた。25周年以降の活動のなかでも、本人にとって大きかったのは、自分の楽曲である約200曲を次々にセルフカバーし、YouTubeの公式チャンネルにアップしていった冒険的な試みだろう(現時点で205曲アップされている)。90年代前半のセットリストを再現する10月のライブも、セルフカバーの積み重ねの延長線上で企画されたと想像される。

 音楽活動を本格的に再開した時、森高がYouTubeを主戦場の一つに選んだことは、私には興味深かった。一連のセルフカバーのシリーズは『LOVE』と題されて順繰りにDVD化されているが、YouTubeの動画は視聴できる状態が維持されている。実は、かつての森高に関しても、テレビ出演時だけでなく、歌い踊る姿をしばしば無料で見ることができた。私は80年代後半から90年代前半にかけて秋葉原にある会社へ勤めていたので、近くの電気街へよく出向いていた。そこでは、ビデオデッキやレーザーディスクの販促として店頭モニターで流される映像が、森高千里のミュージックビデオやライブであることが多かったのだ。

 1987年に「NEW SEASON」でデビューした彼女が注目され始めたのは、ビデオでミニスカートのウェイトレスのコスプレをした「ザ・ストレス -ストレス 中近東バージョン-」(1989年)あたりからである。70年代のアイドル歌手・南沙織の代表曲をカバーした次のシングル「17才」(同年)でも派手なミニスカ衣裳を着用したし、同曲のヒットによって森高千里=ミニスカート・きれいな脚というイメージが広まった。そのように人の目をひくカラフルなビジュアルだった森高が、電気街の店頭で重宝されたわけだ。

 秋葉原がオタクの街になったのは2000年代以降であり、90年代は重心をパソコン関連に移しつつ、まだ家電の街だった。ただ、森高がブレイクし知名度を上げていった頃、当時はまだ変わり者的に思われていたオタクの典型のような扱いで、宅八郎がタレント活動をしていた。彼は、ミニスカ衣裳の森高のフィギュア(「17才」収録のアルバム『非実力派宣言』のジャケット写真がもと)を持ち歩き、それがトレードマークになっていた。宅の著書『イカす!おたく天国』(1992年)の表紙も、彼女のフィギュアを持つ彼の写真だった。

 このことにも象徴される通り、ブレイク直後の森高は、コスプレ的な派手な衣裳のせいもあって、アニメのキャラや人形のような美しさで際立っていた。その意味では、オタクの街になる前段階の秋葉原と、アイドル的なビジュアルだった彼女に親和性があったのは当然だろう。

 森高は、やがて路線を変更する。「17才」に代表される通り、初期には打ち込み主体でシンセ中心のダンサブルな曲の割合が高かった。だが、デビューしてからの彼女の歩みをみると、リミックス集の形で作られたベスト『ザ・森高』(1991年)が初期サウンドの締めくくりとなり、『ROCK ALIVE』(1992年)からはタイトル通り、ロック寄りのサウンドへシフトしていったのである。

 森高は芸能界入り以前には、地元の熊本でバンドを組みドラムを叩くなど楽器に親しんでいた。このため、デビュー後にもシンセ・ドラムやギターを演奏しながら歌ったり、ドラムを叩いて他アーティストと共演するといった場面が時々みられた。タイトル曲のレコーディングで彼女がギターを弾いた『ROCK ALIVE』を経て、自身がドラムやギターだけでなくピアノ、ベースなど多くの楽器を担当した『ペパーランド』(1992年。アルバムタイトルはバンド活動していた頃に出演したライブハウスの名に由来)をリリースしたことで、森高のスタンスの変化は決定的になる。

 一方、森高は、アルバム2作目のタイトル曲でシングル4作目になった「ミーハー」(1988年)で初めて詞を手がけて以来、作詞をするようになった。アイドル的な捉えられかたをしていた彼女は、「ミーハー」、「ストレス」といった当時のアイドルらしくない題材を選び、「見て」(1988年同名アルバムに収録)、「非実力派宣言」(同名アルバムに収録)などで自分の立場をネタにした。切ないバラードも書いていたとはいえ、『臭いものにはフタをしろ!!』(1990年)と題したシングルのカップリング曲が「のぞかないで」であるなど、初期には作詞家としてコミカルな面が目立っていた。

 しかし、森高は戦略的に狙って奇矯な題材を選んだのではない。ストレスで不調になったことから「ストレス」を書き、覗く人がいたから「のぞかないで」を書いたというぐあいに、実体験や実感をベースに作詞していた。サウンドが打ち込み主体からバンド的なものへと移行するとともに、自身の感覚を表現した森高の詞は、「私がオバさんになっても」(1992年)のように同世代の若い女性も共感しやすいものになっていく。ミニスカートのきれいな女性というイメージは維持したまま、サウンドと詞のそれぞれが、以前よりもナチュラルな印象になったのだ。そうした変化の成果が、1993年リリースの『LUCKY 7』だった。同作には、リコーダーも入って叙情的に響くナチュラル路線の代表曲「渡良瀬橋」が収録されていた(ちなみに「渡良瀬橋」に関しては、オリジナルの音源やMVだけでなく、高画質で再編集したMVや新録セルフカバーも収録した企画盤が、今年11月15日に発売される)。

 このようにふり返ると、『ザ・森高』、『ROCK ALIVE』、『LUCKY 7』リリース時のツアーのセットリストをそれぞれ再現する今年10月の公演が、森高千里の変化の時期をたどり直すものであることがわかる。

 かつては秋葉原の電気街で、カラフルな衣裳を身に着けた姿が映像機器の販促に役立てられた彼女は、現在では素人が自由に投稿できるYouTubeというカジュアルな場で、大人の女性の落ち着きを感じさせるセルフカバーを披露している。「勉強の歌」(1991年)などは、オリジナルが書かれた時点では本人がまだ若く勉強する側だったのに対し、今では母として子どもに勉強の大切さを説いているように聴こえる。それだけ、時間は経過したのである。最近では8月2日放送の『FNSうたの夏まつり』(フジテレビ系)で、デビュー時期が近く母である点も共通する工藤静香(同期デビュー)、岸谷香(1年早くデビュー)と森高がドラム演奏も交えて共演し、互いの曲を歌っていたのも記憶に新しい。

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