姫乃たま『音楽のプロフェッショナルに聞く』001 松永天馬(アーバンギャルド)
姫乃たま、松永天馬に作詞のコツを教わる「新しい自分の一面に出会って、掘り下げていかないと」
歌詞の特性を活かす
「歌詞っていうのはフィルム一枚なんです」
松永:普通の文章だったらやってはいけないけど、歌詞だったら制約を取っ払えることがあるんです。なんだと思いますか?
姫乃:うーん、ら抜き言葉!
松永:ははは。まあそういうちょっとした簡略化もそうですけど、時制が自由なんですよ。過去形と現在形と未来形っていうものを混在させられるし、混在させてもするっと聴けちゃう。たとえば「あした地震が起こったら」では、過去と未来と現在を混ぜることによって、その話がいつ起きている話なのかが曖昧になっています。これから起こるかもしれない明日のことを懐かしく思い返すような歌詞ですね。
姫乃:ほあっ、考えたことなかったです。いつもきちんと時系列に書いてました。
松永:歌詞って永遠の一回性みたいなものがあるじゃないですか。
姫乃:えいえんの、いっかいせい……?
松永:小説とかは映画と一緒で、フィルムが連なって順繰りに流れていくと思うんですけど、歌詞っていうのは切り出したフィルムの一枚なんです。手元にある一枚の写真から、色んなことを想像していく感じです。例えばとあるツーショット写真。こういう場所で撮ってるけど、この人とこの人はどういう距離感で、ふたりの表情は何を表しているんだろう。その一瞬を写真のように切り取って、いつなんどきでも永遠に見返せる。リスナーが聴くことによって、それが永遠に繰り返される。
姫乃:ほあー、だから「でした」とか、「でしょう」とか、言葉尻だけの時制ではないってことなんですね。ちなみにまさに永遠の一回性を書いてる曲って何ですか。
松永:ぱっと思いつくのはRCサクセションの「スローバラード」。車の中で好きなあの子と手を繋いで寝て、カーラジオからスローバラードが流れてきて、とても素敵な夜だねっていうことを書いているんですけど、あれはメタにもなっていて、実際にリスナーのカーラジオから流れてくる曲がまさしくこの「スローバラード」かもしれない。だからRCサクセションを好きな男の子と女の子が、車の中でスローバラードを聴くことによって、それを追体験できるんですよね。清志郎さんはそういう歌詞が多くて、「トランジスタ・ラジオ」もそう。授業をサボって、陽の当たる屋上でいろんなところから流れてくる音楽をトランジスタラジオで聴いてるっていう歌だけど、あれもトランジスタラジオや、今ならiPhoneなんかで聴くことによって、一回きりだった感情が繰り返される。
姫乃:わかった! スチャダラパーの「サマージャム’95」もそうですよね。サビの前に、こんな曲が流れたりしてねっていうリリックがあって、ラジオとかから「サマージャム'95」のサビが流れてくる。
松永:そうそう! そういうメタな面白みも歌詞にはありますよね。アーバンギャルドの「傷だらけのマリア」っていう中二病満載の曲があるんですけど、「個性的なことしてみたい 個性がないから 個性的な女の子はこんな音楽聴かない」という歌詞を唐突に挿入することによって、「アーバンギャルドを聴いている私個性的」って思っている人に突きつけてやるわけですよ。ナイフを。
姫乃:言葉のナイフを!
松永:ラブソングで「君」って歌うと、リスナーは自分のことかなって思いますよね。そういうお客さんと一対一になれる良さも歌詞にはあります。
姫乃:作詞ってだから、自分のことだけじゃなくて、曲のことと、聴く人のことと……あっ、考えることがたくさんあります。
歌詞と自分とリスナーの関係
「主人公の女の子を僕が書くことによってメンヘラを客体化している」
姫乃:職業的な作詞の時もAKB48の名前があがりましたけど、同グループに「僕の太陽」という曲があって、これが君は僕の太陽だっていう非常に漠然とした歌詞なんです。最初に聴いた時は、えーって思ったんですけど、これがふとした瞬間にものすごく心に刺さるようにできているんですよね。具体的なことは書いてないんですけど、なんで俺の気持ちがわかるんだ! って、ファンの人が思うわけです。
松永:何を書かないかって大事で、歌詞もある程度想像に任せた方が良いですよね。さっき「スローバラード」に感情移入する話をしたけど、あれで相手の女の子がどんな子でどんな服着ててとか詳細に書いちゃうと、誰でも感情移入できなくなっちゃう。さらに秋元康さんがすごいのは、AKB48以降、男の子が一人称の歌詞が圧倒的に増えたところ。おニャン子クラブの時は10代の女の子がおじさん達に向かって歌っていたのを、オタクに主役の座を譲り渡したんだと思うのね。お前らが推すことによって、この現場が成立するんだぜっていう主権をリスナーに委ねている。「大好きだ 君が大好きだ」とか「会いたかったー会いたかったー」とか、そういう曲がありますけど、あれってオタクの感情なんだよね。オタの気持ちをAKBの女の子が歌ってあげている! つまり歌われている主役は推しのメンバーじゃなくてリスナーなんですよ。あれはだからすごいギミックのある構造になってるんですよね。
姫乃:歌詞の中の私が誰なのかとか、あなたは誰なのかとか、さっきの歌詞とリスナーの関係にも話が繋がってきますね。アーバンギャルドに関しては、ちょっと複雑な感じがするのですが、歌詞とリスナーの関係はどうなっているんですか。
松永:アーバンギャルドには僕という監督がいて、浜崎さんという主演女優がいて、そこにあてがきをしていくんだけど、それは実はあてがきではなくてフィクションで、彼女がプラスチックな女の子であるという作りになっています。非常に渋谷系っぽい、ピチカート・ファイヴ的だなと自分で思うのは、その映画的な構造。だからリスナーは歌に感情移入すると同時に、その映画的なカメラワークを、客観性を持って眺めることもできる。アーバンギャルドはさらにそこへメンヘラの要素が入ってくる。これまでメンヘラのポップソングっていうのは一人称のものが多かったわけです。90年代でいうと椎名林檎さんとか、Coccoさんとかは、あくまで私についての話、自意識強めの歌詞だったんだけど、アーバンギャルドっていうのは、主人公の女の子を他者である僕が書くことによってメンヘラ的な自意識を客体化している。それがアーバンギャルドのコンセプトになっているんです。
姫乃:こうして改めて聞くと、アーバンギャルドのコンセプトと歌詞はかなり密接な関係にありますね。
松永:あ、でもこれね、書いた後にいろんな人に分析されて、言われてみればそうでござんすね! って気が付いた感じです(笑)。創作しているときはほぼ直感でやっている。
姫乃:そういえば、どうしてメンヘラを選んだんですか?
松永:自分の周りにいる、物をつくる女の子って病んでいる子が多かったし……何より自分の中に病んだ少女がいたんじゃないですか! 見た目はおじさんですけど……。それを自分が歌うんじゃなくて、人に歌わせることによって、初めて作品として成立したというか。
姫乃:私はずっと自分の歌詞とキャラクターが密接でないことに悩んでいたんですよね。いま知識が増えたことによって、事態の難しさがさらに極まるという、学びの一歩目にありがちな状況になっています……!