『70年代シティ・ポップ・クロニクル』インタビュー

はっぴいえんど、ユーミン、サザン……萩原健太に訊く、70年代に“偉大な才能”が多数登場した背景

「みんなが遊び心を発揮して、実験をすることが許された環境だった」

――そのなかで本書では、日本語の歌に質的な変化をもたらした存在として、矢沢永吉さん、サザンオールスターズ、はっぴいえんどを紹介しています。サウンドの変化に付随して、言葉の使い方が変わっていったということでしょうか。

萩原:例えば、ドメスティックな言語のあり方が音楽を引っ張っていくということがあります。日本語だったら七五調が強かったりして、そうすると音楽も、どうしても慣れ親しんだグルーヴになっていく。そういう意味で、「日本語の構造や言葉の響きに引っ張られなければ、それまでの日本になかったような形でメロディーを躍動させられるんじゃないか」と考える人が続々出てきたんです。その代表格が彼らということですね。コニー・フランシスが自身の曲を日本語で歌う時のような感じで、片言っぽい日本語が妙にカッコよく、新鮮に感じました。訳詞ポップスにあったものが、大瀧さん、矢沢さん、そして最終的に桑田(佳祐)の歌い方になっていく。日本語を英語のように聴かせるような歌い方で、これまでの日本人が手に入れることができなかった海外のビートやグルーヴ、メロディー感覚を獲得していったんです。現在では、ラッパーたちが日本語で押韻することを当たり前に考えているし、正しいやり方だったと思います。

 例えば、はっぴいえんどが71年に「はいからはくち」という曲を発表しましたが、言葉としては“はいからは/くっち”という歌い方でした。“日本語の美しさはどこに行ったんだ! 嘆かわしい!”みたいな人もいましたが、“くっち くっち”という耳慣れない響きが何とも楽しかった。もちろん、言葉の面白さだけだったら、意味のない言葉の羅列や英語で歌えばいい、という話にもなりますが、松本隆さんなどはそこにきちんと意味を乗せるという作詞家の素晴らしい仕事を見せてくれましたね。

――実験的な表現に合わせて、しっかりと意味のある言葉を載せる作詞家も生まれてきたわけですね。

萩原:大瀧さんは、へんな区切りの歌い方をしますが、歌詞を見るときちんと世界観が伝わってくる。また、サウンドはカントリーっぽいのにものすごく都会的な内容のことを歌っていたり、過去の東京と現在の東京の二重構造を使ったりと、非常に実験的な歌詞を書いていました。このように、ポップスというフィールドの上で、みんなが遊び心を発揮して、実験をすることが許された環境だったんです。「もともと大して売れていないし、やろうがやるまいが売れ行きには関係ないだろう」という開き直りもあったと思います(笑)。

 ただ、75年くらいになると同じ人脈から荒井由実(松任谷由実)などがかなりヒットして、「売れないとマズイんじゃないの?」という話に少しずつ変わってくる。そうした手前までが、本当に幸福な時期だったと思います。彼らは売れていないからテレビには出られなかったけど、この時期に始まったFMラジオが若い人たちをドンドン紹介していました。

――ターニングポイントはユーミンだったと。

萩原:そうですね。1975年、『ルージュの伝言』『あの日にかえりたい』とヒットシングルが続いた後に出たアルバム『COBALT HOUR』が分岐点でしょう。ここから“ニューミュージック”という呼称が一般的に使われ始めて、従来の歌謡曲ではないところに面白い音楽がある、という空気が広まり始めました。

――その流れでいうと、本書で取り上げられた音楽家のなかで、加藤和彦(ザ・フォーク・クルセダーズ/サディスティック・ミカ・バンドなど)さんは異質な存在といえそうです。

萩原:僕が追いかけていたのは、そう呼ばれるのを嫌がった人を含めて“ティン・パン系”と呼ばれていたものですが、加藤さんはそのシーンではなく、関西フォークから来た人で。影響を受けたというドノヴァン・フィリップス・レイッチにちなんで“トノパン”なんて呼ばれていました。1971年の『スーパーガス』にはジェイムズ・テイラーのオマージュのような曲なんかもあったりして、「次にこのサウンドが来る」という紹介者として多大なる功績を遺したと思います。そのうえであの人の困ったところは、その都度いろんなジャンルのロックをやって、前のものをどんどん捨てていくこと。“廃仏毀釈”の精神というか、以前のものを引きずらす、常に新しいものを追いかけていて、移り気な女の子みたいだったんですよね(笑)。

――そんな活動の仕方が、かえって若い世代に訴求したともいえますね。

萩原:そういうところも含めて、加藤さんはスタイリッシュでカッコいい方でした。ほかにも、彼の友人である音楽評論家の今野雄二さんらがオピニオンリーダーとして新しいものを提示してくれていて、オーガナイザーとしてもありがたい存在でした。

――70年代前半に登場した世代には、プレイヤーとして後世に影響を与えた人も多いですね。その背景とは?

萩原:それまではリードギター、例えばベンチャーズのノーキー・エドワーズを目指す人ばかりだったのに、細野さんや後藤次利さんのようなベーシストに憧れる人が出てきたり。それまでは、ベースなんて、じゃんけんで負けたやつがやるという時代でしたから(笑)。でも、後藤さんのテクニックを目の当たりにして、それに憧れる若者が増えたんです。浜口茂外也さんや斉藤ノブさんの影響でパーカッショニストも増え始めましたし、松任谷正隆さんや佐藤博さんの活躍も、日本にキーボードプレイヤーが増えた要因でしょう。本で紹介しているように、この世代のミュージシャンたちが、日本の音楽シーンを広げてくれた。その功績は、リスナーを育てて音楽の裾野を広げたということだけではなくて、後続のミュージシャンを育てたことも大きかったんです。

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