人気作曲家・マシコタツロウが味わった“苦悩”とは? 「『ハナミズキ』の壁を越えるのはやめにしました」

 

 音楽を創る全ての人を応援したいという思いから生まれた、音楽作家・クリエイターのための音楽総合プラットフォーム『Music Factory Tokyo』が、マシコタツロウのスペシャルインタビューを公開した。

 同サイトは、ニュースやインタビュー、コラムなどを配信するほか、クリエイター同士の交流の場を提供したり、セミナーやイベント、ライブの開催など様々なプロジェクトを提案して、未来のクリエイターたちをバックアップする目的で作られたもの。コンテンツの編集には、リアルサウンド編集部のある株式会社blueprintが携わっている。リアルサウンドでは、今回公開されたマシコタツロウのインタビュー前編を紹介。2002年に一青窈の1stシングル『もらい泣き』で作曲家デビューを果たして以降、中森明菜や嵐、山下智久、SMAP、EXILEなど、様々なアーティストに楽曲を提供してきた彼に、音楽遍歴や影響を受けたアーティスト、プロとしてぶつかった壁について、じっくりと話を訊いた。

――マシコさんが音楽を始めた原体験を教えてください。

マシコ:幼いころから自宅にアップライトピアノがあって、それをオモチャ感覚で使っていたのが大きいですね。家では親父が結構大きい音量でジャズを聴いたりしていましたし、その影響で「この楽器とこの楽器でこの音楽が成り立つ」という感覚は養われていました。その後、小学生の時に母に勧められてピアノ教室にも通ったのですが、どうもクラシックが合わなくて。それを見かねたピアノの先生が、「作曲をしてみたらどうか」と、コードの勉強をさせてくれたんです。まずはC、F、Gの3コードを教わるところから始めました。先生はクラシックを教えていたものの、じつはジャズ好きでポピュラー音楽にもすごく理解のある人で。コードの勉強をしていくなかで、まだ譜面をすらすらと書けるような子ではなかったから、先生がうちの母に「シンセサイザーを買ったらどうか」と直談判してくれました。そして購入したのは、当時売れていたヤマハのDX7とEOSという2機種ではなく、V50という同社初のシーケンサー付きのシンセサイザーだったんです。V50はトラックの多重録音が可能で、8つくらいを使用できたので、そこから作曲を始めました。ちなみに僕、小学生の夢のところに作曲者って書いてたので、その頃からぶれずに25年以上やっているんですよね。

――先生の薫陶を受けて最初に作ったのは、やはりジャズっぽい曲だったのでしょうか。

マシコ:僕、完全なるポップ野郎なんですよ(笑)。クラシックでもなくジャズでもなく、歌謡曲などの日本の音楽を聴いていましたし、テレビから流れてくる音楽がすごく好きでした。アイドルやシンガー、ドラマ主題歌やアニメソングなどです。だから、僕が最初に作った曲もテレビで流れているようなものをイメージしました。もしかしたらその普遍的な音楽に対するあこがれのようなものは、今と変わっていないのかもしれませんね。

――当時、子どもの頃に一番影響を受けたのはどんな音楽ですか。

マシコ:ちゃんと物心がついて、恋愛が分かってきた年頃に愛聴していたのは槇原敬之さんですね。あのメロディラインはいまだに鳥肌が立ちますし、すごいと思うのはどんな状況からでもあのびっくりするメロディラインに持っていくこと。あの才能は絶対に真似できないし、超えられないと思ってますね。

――子どもの頃から音楽に慣れ親しんできたマシコさんですが、明確にプロになる決断をしたのはどのタイミングでしょう。

マシコ:僕の実家は代々公務員の家系で、長男だったこともあり、音楽は趣味でしかできないと思っていたんです。もちろん大学に進学して、公務員試験を受けたのですが、趣味の作曲やバンド活動に没頭していたこともあり、不合格になってしまいました。そこで公務員試験に集中することを決意するために、諦めるつもりでデモテープを11社に送ったんです。すると、そのうちの2社くらいから「面白いね、もっと聞かせてよ」と返事が来た。そこからは藁にもすがる思いでその会社に連絡し、東京へ行き来するようになりました。そのあとは学生生活と作曲仕事を並行していて、卒業後もなかなか作曲家一本で食べていくことを決断できずにいたんですが、当時のアルバイト先で段ボールを潰していたところ、たまたま近くで開催されていた『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』の音漏れが聴こえてきました。そこでバンドの音漏れを聞いて、「絶対に音楽をやりたい」と決断し、親を「25歳までにはなんとかするから」と説得して上京することになったんです。

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