ターボ向後のマニアック音楽シーン探訪

フェアリーズはなぜ物語を必要としない? ターボ向後が“妖精学”から魅力を読み解く

 しかし、現在のアイドルに求められているモノが、彼女達にはまったくないかというと、もちろんそんなことはない。彼女たちに抱く印象は、本作『フェアリーズ LIVE TOUR 2014 -Summer Party-』の全編から立ち上がる、唯一無比の“妖精性”によって一変してしまうに違いない。なぜなら本作は「アイドルであること」とはどういう意味なのかを、見る者自身に問いただすからだ。

 伊藤萌々香の不敵なほど自信に満ち溢れたパフォーマンスに圧倒されるのも、まるでガラスの仮面の北島マヤのごとくその才能を開花させつつある下村実生の成長を見るのも、ダンスシークエンスにおける藤田みりあの年齢を超越した妖艶さを愛でるのも、野元空のグルーヴをジャストに捉えたリズム感を堪能するのも、井上理香子のシルキーでしなやかなボーカルに酔いしれるのも、林田真尋の小悪魔ぶりに一喜一憂するのも、もちろんアイドルファンとして正しい楽しみ方だ。しかし、一番の見どころは、ダンスと楽曲、そのどちらにも宿る過剰さによって立ち上がる“妖精性”だろう。それは、ライブの進行とともに、19世紀の詩人ジョン・キーツやパーシー・ビッシュ・シェリーといった妖精学の偉人達が謳った、現実を忘れさせてくれるような恍惚へと我々を導いてくれるのだ。

 そして映像を見ながら我々は気づいてしまうだろう。「友情」「努力」「勝利」といったまるで少年マンガ誌のような物語性や、ライブで盛り上がるとされているアキバポップ的な狂躁的アンセムを、フェアリーズは意図的に「必要ない」ものとして排除しているという特異性に。そう、この作品では 現世的な「アイドル属性」に対して、フェアリーズが打ち出した別の方法論を提示しているのだ。

 映像でもわかるように、フェアリーズのライブやイベント参加者には彼女達と同世代の女の子の割合が非常に多い。ファンの女の子達はきっとこう感じているのだろう。アイドルとは楽しく美しく歌って踊るからこそ魅力的であり、必ずしも人気投票や物語性はなくてもかまわないのだと。そしてステージ上のフェアリーズは、あくまで過剰にパフォーマンスすることで、純粋なるアイドル≒妖精へとメタモルフォーゼしていく。客席を埋め尽くすトライアングル型のペンライトは徐々に妖精の羽のように見え、ステージ上に設置された等身大のボックスは、妖精達の住処のように見えてくるだろう。まるで真夏の夜の夢のように。

 冒頭に挙げたコティングレー妖精写真事件には、驚くべき続きがある。写真を撮影した少女達はねつ造を認めながらも、死ぬまでこう主張し続けたのだ。「5枚の写真のうち4枚は嘘よ。でも最後の1枚は本物なの」その言葉の意味を、我々はフェアリーズの映像作品の中に発見する。本物か偽物かだって?  フェアリーズは本当の妖精、アイドルに決まってるでしょ。

■ターボ向後
AVメーカーとして史上初「映像作家100人 2014」に選出された『性格良し子ちゃん』を率いる。PUNPEEや禁断の多数決といったミュージシャンのMVも手がけ、音楽業界からも注目を集めている。公式Twitter

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