ニューアルバム『私重奏』インタビュー

一青窈が自身のルーツの向こうに見出した“歌“とは?「1回全部受け入れて、できることだけ書こうと」

 

「大人ぶるとか、もう両親のことは唄わない、とか止めようと思った」

――そうですか(笑)。そういうふうにルーツに立ち返る感覚があったから、アルバムの冒頭に、台湾に関係した曲が並んでるんでしょうか?

一青窈:そうですね。「雨夜花」は、1枚目のアルバム(『月天心』)に入れた「望春風」と同じ、鄧雨賢という作曲家の曲なんですよ。この人は台湾人の誰もが知ってる民謡の四部作を作っていて、いつかこの4つを全部唄いたいと思ってるんですけど。で、この「雨夜花」は、父が学習院と早稲田で山登りのサークルに入ってて、その山登り仲間の人たちも唄えた台湾の歌なんですね。戦前からある曲だから、苦楽を共にした仲間はお互いの国の曲を覚えて、交友を深めていったそうなんです。さっきの本の取材をしてた時に、父が一番愛してた、学習院が日光に保有してる光徳小屋というところがあって、そこで当時父を慕ってた後輩や同級生たちと一泊したんです。その時にリーダー的存在の人が「窈ちゃん、この曲知ってる?」って言って、台湾語で唄いだしたんですよ。「もちろん知ってます! 何で唄えるんですか?」って言ったら、「僕はパパと一緒によくこれ唄ったんだよ」って。それで私も唄おうと思ったんですね。このアルバムに入れたいなって。

――そういう背景があったんですね。次の「LINE」は台湾の故宮博物院の特別展のために書いた曲ですよね。

一青窈:そうですね、これを書いたのが、SNSの事件がすごく多かった時期で。ストーカーとか拉致監禁とか、あと少女買春とか……よく知りもしない人とスタンプを交換し合って、それでも人はやっぱり出会いを求めてるんですよね。それは当たり前のことなんだけれども、「文化がここまで発達してもリスクを犯してでも会うものなんだな」みたいに、すごく不思議に思ってて。で、故宮展の話をもらった時に思ったんです。「とはいえ、この目の前にある壺とかも、何の因果かわからないけど何千年もの歴史に揉まれて、いったん紫禁城から出て、いろんなところを紆余曲折して台湾にやって来て、そこからなぜかこの2014年という時代に日本にやって来て、これって何だろう?」みたいな。私は台湾に友達が来ればガイドで故宮博物院に行くから何回も見てるけど、そうか、日本から出てない友達はもちろん、これを見ないまま死ぬ人はたくさんいるんだな……と思って。その縁をたぐり寄せるために、みんな躍起になってるというのが面白いなと思ったんです。

――それで縁というモチーフが浮かび上がっているわけですね。しかし台湾の歴史をLINEとかぶせるとは独自の視点だなと思いました。

一青窈:そうですか(笑)。あと、周りのみんなに……ちょっと遅いけれども、結婚相談所とかに登録してる友達がいて。それで「LINEとかのやり取りじゃ、やっぱ難しいんじゃないかな」みたいなことを話しましたね。「会ったほうがいいんじゃないかな? 縁があれば会えるよ!」って(笑)。

――(笑)あなたが恋愛相談所の役目をしてるみたいですね。

一青窈:そうそうそう(笑)。でも35を過ぎると、もうネットで登録できるの、2社しかないらしいですよ。女子は!

――結婚相談所? ほんとに?

一青窈:びっくりですよね。それでみんな「ええー!」みたいな(笑)。この「LINE」は根岸(孝旨)さんのアレンジがゴリゴリなのと、後半の暴れ太鼓みたいなのがめちゃくちゃ面白かったですね。根岸さんはライブではご一緒してたけど、アレンジは「犬」以来、ひさしぶりにやってもらいました。

――そうですか。話してて、なんとなくわかってきたんですけど、台湾とか自分のルーツを作品にする時期だというのがあったんですか?

一青窈:うん、「自分を全肯定しよう」みたいな。大人ぶるとか、もう両親のことは唄わない、とか止めて。1回全部受け入れてみようと。で、できることだけ書こうと。より他人の目を気にしなくなったということですかね。まあ「他人の目を気にしないんですね」と言われ続けてきたけれども……やっぱり、ほんとに気にしてないから、こんなこと書けるんだなっていう感じです(笑)。

――つまり過去は、全肯定には至ってなかったわけなんですね。

一青窈:ああー、そうですね。とくに(岸谷)香さんの曲なんかは……。

――「パパママ」ですね。

一青窈:そうです。これは朝の3時ぐらいに覚醒して、10才か9才ぐらいの自分が急に憑依して。<あ、私、こんなことが言いたかったのに、ずっと言わないでガマンしてきたんだ>みたいな。で、スーッと書いて。香さんには最初、♪19 GROWING UP!(「19 GROWING UP」)とか、♪8月の風を~(「世界でいちばん熱い夏」)とか、あと「スパイ・イン・ラヴ」とか、ノリノリの、イェー!みたいなのを書いてくださいって頼んでたんですけど。先にこの詞ができちゃったから、送ったんですね。そしたら香さんがその詞を、まるでお経を読むようにサーッと出してきた曲がこれだったんです。ほんとはもっと長い詞だったんですけど、それを香さんがかいつまんで、湿度が高くて、ちょっと悲しくなるようなところを全部省いて、前向きなところだけをピックアップしてくれたんですね。だから前向きな、かわいい曲になってるんです。「なるほど、こうするとプリプリみたいなポップスになるんだ!」みたいな。それで香さんからメールで送るとかじゃなくて、「窈ちゃん、CDで今持ってるんだけど、取りに来てくれない?」って言われて、「あ、行きます」みたいな。それで夜の10時ぐらいに「一杯飲もうよ」みたいな感じで、イタ飯屋さんでガールズ・トークをしました。

――(笑)じゃあ実際はもっと言葉があったんですか。

一青窈:言葉、あります。これの全文はツアーのパンフに載せようと思ってます。

――そうですか。でも湿度が高いところを省かれたという話だけど、充分、情緒的な曲だという気がしますけど。

一青窈:ああ、そうですか? この曲は……父が亡くなった1、2年後のクリスマスに、サンタさんに「パパが生き返る薬をください」ってカードを書いて、枕元に置いておいたんですよ。そしたら次の日、サンタさんから「それはムリです」って返事が置いてあって(笑)。で、それがウサギのサンタさんがソリを滑ってるカードに書いてあったんですけど、ある日、父の部屋の写真を整理してたら、それと同じカードが出てきたんです。「ということは、返事を書いたのはママだ」と(笑)。それで……子供ながら残酷なセリフを書いたな、と、ずっと後悔してたんです。あんな無理難題を突き付けて泣かせちゃったんじゃないかな?と。その思いをずーっと閉じ込めてたのが、その、37歳の時の午前3時に開いたんですね。「そうだ、私、こんな思い出あった」みたいな。それをここで書いたら、すごくスッキリして。

――なるほど。その全肯定に至ったのには、お父さんお母さん含め、自分の生まれてきた背景を振り返ったのが大きいみたいですね。まあ今までも充分、作品に出してた気はしますけど……。

一青窈:うーん、それでもまだ、いっぱいありそうな気がします。忘れるための努力をずっとしてきた何10年かだったから、やっぱり容易に開かないというか。

――でも、いろいろな作品に断片として残してきてはいますよね?

一青窈:たぶん自分の中で、キレイに解釈して吐き出してたんでしょうね。こんなに何のエゴもない、サラッと出しちゃうのはレアだなっていうか。「パパママ」については、やっぱり香さんの力だと思います。私もプリプリの再結成ライブを観て、あのまっすぐな感じに当たったんでしょうね。

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