田中直基に聞く、Dentsu Lab Tokyoがアイデア×テクノロジーの力で社会課題に向き合う理由

 株式会社電通のR&D(Research & Development)機関として発足10年を数えるDentsu Lab Tokyo(以下・DLT)。「社会や企業の課題をテクノロジーとクリエイティブによって解決する」ことをミッションとしており、『東京2020パラリンピック』の開会式やタレントのマツコ・デラックス氏を模したアンドロイド『マツコロイド』など、インパクトのある技術活用がたびたび注目されている。2023年12月にはアドミュージアム東京で企画展示会『愛と出会えたテクノロジー展』を開催、テクノロジーとクリエイティブの出会いを「愛との出会い」と表現したユニークな展示も好評を博した。

 所属する田中直基氏はコピーライターとして広告の世界を牽引するトップクリエイターの一人であり、現在はDLTの代表職とクリエイティブ・ディレクターを務める。広告とクリエイティブとテクノロジーの交わる第一線で活躍する彼の経歴を伺いながらその視座に迫った。

Dentsu Lab Tokyo・田中直基

Dentsu Lab Tokyo・田中直基氏

コピー・ライター/クリエイティブ・ディレクター。言葉、映像、デザイン、テクノロジーなど、課題に適した手段でニュートラルに企画することを得意とする。主な仕事に、『TOKYO2020パラリンピック』開会式、AI監視社会から逃れるカモフラージュ『UNLABELED』、『マツコロイド』、Eテレ「デザインあ」、サントリー「人生には、飲食店がいる」、サントリー「話そう。」、パートナーエージェント「ドロンジョとブラックジャック」、YouTube「好きなことで、生きていく」などがある。TCC賞グランプリをはじめ、受賞多数。受賞歴にCannes Lions、D&AD、ADFEST、Spikes Asia、ACC賞、TCC新人賞、ギャラクシー賞、グッドデザイン賞など多数。

僕たちの職務・ミッションは「何かを伝えて、人の心を動かす」こと

ーー田中さんは、株式会社電通のR&D組織として発足し、活動10年目を迎えるDLTでクリエイティブ・ディレクターを務められています。まずは前段としてDLT設立の背景や、設立当時の目的などについてお教えください。

田中:DLTはもともと電通の中にあったCDC(コミュニケーション・デザイン・センター)というチームを前身とした機関です。2014年にスタートしたさいは8人ほどの小規模で実験的なチームでした。設立の背景としては、CDCが生まれた2010年代というのはデジタルテクノロジーを取り巻くネットワーク環境やインフラが大きく発展した時期で、このタイミングでいろんな表現が生まれていました。様々な可能性があるにもかかわらず、一方で広告・クリエイティブ業界はこうした変化に適応できていなかった。半世紀以上も続いてきたプロセスやルール、たとえば説明の仕方とか、受発注のやり方、プレゼンの方法などがこうした表現技術の発展に対して全く合わなくなっていることに気づいたんです。

 それまではプレゼンをするならまず紙やパワーポイントの資料に起こしていたんですが、そのデメリット・弊害は映像にしてもグラフィックにしてもそこで表現できないものはすべて、そこで1回淘汰されてしまうこと。せっかくデータを使ったビジュアライズとかができるとしても、なかなかクライアントが受け取ってくれないことでした。旧来の資料で表現できないものは一切表現できず、プレゼンが通らないという状況がありました。

 くわえて、たとえば今までコピーライティングや映像だけをやっていた人間が、何となく「デジタルでこういうことできるよね」みたいなアイデアを持っていて、それを社外のプロダクションやエンジニアに相談しても「こんなのできるわけないよ」とか、想定以上の見積もりが届いて諦めたり、提案を途中で変えたりというようなことも当時は多発していて、これは良くないなと。なるべく自分たちの手でプロトタイピングやリサーチをし、なんなら納品までできるような、あるいはそういったトライアルを社内でできる体制が必要でした。

 そんな経緯で2014年にCDCの中にチームが発足して、最初は8人だったんですが徐々に結果を出せるようになって、社内でもその必要性が理解されていきました。10年間でいろんなものを作っていくなかで人も増え、現在は約50人、様々なスキルセットを持つ人材が所属しています。

ーー技術の民主化によって多くの表現が可能になったことで、広告の世界でもこうした技術に対しての知見を深めたり、実装する方法を考えていくことや、自社の内製でできるような仕組みが必要だった、ということですね。

田中:僕たちの職務・ミッションは「何かを伝えて、人の心を動かす」こと。「伝達」っていうことがコアにあるんですけれど、人間はそもそも、生物学的にも生理的にも新しいものに出会ったときに一番心が動く生き物だと思うんです。予想していないものであったときの衝撃というのが大事だし、そういうクリエイティブを考えるうえでは16:9の画面やポスターみたいな「決まった枠」のメディアでの勝負よりも、そこから飛び出していった方がはるかにインパクトが強いし、ものづくりも効率的になるので、ある種必然的なシフトだったとも思っています。

ーー田中さんはコピーライターとしてもインパクトのあるコピーを多数手がけていらっしゃいますが、そういう方が枠の決まったメディア、たとえば出版やテレビCMの世界で制限のなかでクリエイティビティを発揮していくことを突き詰めるだけではなく、時には全く新しいテクノロジーを使って人々の興味を喚起できるんだっていうマインドに至った理由はありますか? 複雑な思いもあったのでしょうか。

田中:大前提としてコピーは、すべての企画や表現の根幹を担うと思っているので、コピーライターだからこそ、さまざまな新しい表現と相性がいいと思っています。そう考えるようになった理由には、僕の順風満帆ではないキャリアがすごく関係しているんです(笑)。

 そもそも僕は機械工学専攻で修士過程までいって、論文を書いたり、学会発表などをしていたんですが、そこから電通に入って、最初は営業を4年やったんです。行き当たりばったりな性格なもので、あんまり自分の未来を考えてキャリアデザインとかするタイプじゃなかったんですよね。で、営業を4年間勤めて、クリエイティブに行きたいなと思って異動をしたのですが、その時に仕事が全然こなかったんですよ。1年目からコピーライトやCM制作とかをやっている若手の中に、何もできない、営業しかしていない中堅社員がいる感じなので、当たり前なんですが仕事がなかった。

 当時、2008年ごろというのはテレビCMや新聞の広告がイケている時代で、周りの年下の子たちが「CM作りました」とか「僕も新聞作りました」と言っている中、僕が最初に3年間やった仕事はYahoo!のトップに掲載されるバナーを作る仕事で、ずっと小さなバナーを作り続けたんです。

Dentsu Lab Tokyo・田中直基氏

 周りから見たら「3年も居るのにバナーだけしかやってない」と思われていたでしょうが、この仕事が僕にとっては素晴らしくて。一般の広告って意外と効果を測らないというか、「このCMでどのぐらいの人の心が動いたのか」「新聞に掲載してどのぐらい商品が売れたのか」って、あんまり測れないものなんです。

 でもバナーはそういうリアクションが数字になるので、全部わかるんですよね。バナーのクリック率やコンバージョンを見て、その3年間、いろんなことを実験したんです。ムービーを流してみたり、インタラクション性のある広告を出してみたり。誰にもチェックされないことをいいことに、今の僕の基盤になっている手法をひたすらそこで実験して、この経験を通して僕はメディアにこだわらなくなっていったんです。

 どのメディアでも面白ければ人は動くし、こだわらなくていいんだということに気づいた。だから「俺はテレビCMだけやるんだ」とか、「ひたすら新聞でいいコピーを書くんだ」みたいな、メディアに固執するような気持ちはなくて。

 そんな形でデジタルをベースにしたクリエイティブを作っていると、社内にはライバルがそもそも少なくて、でも時代の中でインターネットの影響力はどんどん強くなっていたので、いろんなクライアントさんから声がかかるようになった。それが行き着いた先にパラリンピックの開会式もあって、こうした経験が制約やテクノロジーを味方にすること、制約を越えることっていう自分のテーマに繋がったのかなと思います。

 ほかにも今まで僕が作ってきた企画って、たとえばまだ顔認識がそんなに使われていない時代に顔の操作で走る車を作ってモーターショーで発表したり、あるいはキネクトを使って「かめはめ波」を打てるイベントを使ってみたり、あとは『マツコロイド』もそうですが、とにかく「一番面白くて目立つアプローチを作りましょう」という考えで作っているんです。

『マツコロイド』

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