eスポーツ“五輪採用”をめぐるすれ違い ファンとIOCが納得する着地点は存在するのか
平行線の議論が交わるときは来るのか
この議論をめぐっては、前提のところですれ違いがあるとの指摘もある。日本ゲーミング協会の代表理事を務める文筆家/研究者の木曽崇氏によると、フリークのあいだでは「ビデオゲームを競技化したもの」と捉えられているeスポーツだが、IOCからは採用が検討され始めた当初から、「リアル側の競技を前提に、ビデオゲーム化されたもの」とされてきた背景があるという。つまり、前者は、「当該タイトルに含まれる遊びをそのまま競技化したもの」をeスポーツと呼ぶが、後者は、「現実にある競技をデジタルで再現したもの」をeスポーツと呼んでいるというわけだ。
その前提に立つと、先述の『Fortnite』における両者の齟齬にも納得がいく。「同タイトルのゲーム性がそのまま競技になる」とフリークが考えた一方で、IOCは、「(すでにオリンピック競技として存在する)射撃を、eスポーツとしてデジタル上で競技にした」ことになる。この点は両者にとっての認識の土台であるため、その溝が埋まっていくことは考えにくい。今後、仮にeスポーツが競技として一般化したとしても、そのプレイヤー層・支持層が考える姿とは、似ても似つかないものになる可能性がある。
くわえ、IOCは、オリンピックで公認されるeスポーツの条件として、「そのルールをゲームパブリッシャーではなく、リアル競技側の各国際競技連盟が主導的に整備するもの」と定めているという。その文言、スタンスから察するに、今後もビデオゲームを競技化するメリットを享受できる前提のもと、都合によってゲーム性やルールが改変されていくのだろう。
ただでさえ、(フリークにとって本来の意味の)eスポーツには、「ゲームは遊び」「どこがスポーツか」といった批判や疑念の声が向けられやすい。その背景には、精通している人にしかプレイの凄さが分かりづらいといった、同分野ならではの特性の影響もあるのだろう。これは特定のタイトルを実際にプレイしている人と、“動画勢”(自分ではプレイせず、動画だけを見る人たちの総称。他人のプレイを根拠に手厳しい発言を繰り返す人たちに対する蔑称としても使われる)のあいだにある諍いと同質のものだと言える。もし本来の形で競技化されなければ、こうした認識のすれ違いはさらに広がっていく可能性もある。
そもそも「リアルとバーチャルを混同してしまう」という、外部の人間が考えるゲーム文化の弊害は長らく、過激な描写があるタイトル、さらにはそのプレイヤーを批判するための常套句だった。その言葉が大衆に向けた競技化においても足を引っ張っている現状には、皮肉さも感じてしまう。そうしたムーブメントが生まれた頃には、その仮定が正しいと疑われず、偏向的な報道も少なくなかったが、いくらか時間が経ち、少しずつ反証も行われてきた。公的機関がなすべきは、大衆の理解に迎合したゲームの競技化ではなく、そうした誤解を解くことなのではないか。
eスポーツをオリンピックの公式競技へと採用する動きは、画期的かつ実験的な取り組みである。「第三者のネガティブな印象をできるかぎり排除したい」という願いは、フリークにとっても、IOCにとってもおなじであるはず。その見据える先が違っている現状には、「残念」という以外の言葉がない。
描く平行線が交わるときは来るのだろうか。本当の意味でのeスポーツの力は、そのときにしか示せないような気がしている。
画像=Unsplashより
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