『マリオ35』から考える、「バトロワ系」ゲームに潜む他者性排除の論理

他者性の排除から他者性の超克へ

 一方で「バトロワ系」の中にも、可能な限り他者性を取り入れようという流れが現れ始めてもいる。端的な例が『Apex Legends』(2019年)という作品だ。

 同作では2〜3人小隊のチーム戦で行うバトルロイヤルをメインとしており、チームの構成員はそれぞれアビリティやプロフィールなどが異なる(すなわち他者性を持つ)キャラクターが務めている。

 つまり同作では従来の「バトロワ系」とは打って変わって、他者性を排除するのではなく、むしろ、他者性を前提としたゲームとして設計されている。これは『PUBG』以来の「バトロワ系」が持っていた魅力を損ねるものだろうか。

 そうではない。『Apex Legends』では他者性が強調された代わりに、「言語の壁」が取り払われている。同作では「Pingシステム」という機能を使うことで、プレイヤーたちはボイスチャットを使わずとも、コントローラー上の操作で武器や敵の位置など特定の方向を示すといった戦略を共有することができるのだ。つまり、『Apex Legends』において私たちは、「(身体的な)他者性を持つ他者」と平等なコミュニケーションを取ることが可能になったのである。

 以上のことをまとめると、こういうことになる。無数の他者と繋がれる現実世界において、平等なコミュニケーションを実現することは困難であるばかりか、可視化された他者性に対して私たちは不平等を感じることさえある。しかし『PUBG』以降流行した「バトロワ系」ゲームにおいては、キャラクター間の能力差を排除し他者性を無効化することで(文字通り「PlayerUnknown」になることで)、他者との平等なコミュニケーションが実現した。

 また、『Apex Legends』においては、キャラクター一人ひとりの特徴が個別に設定されることで他者性は復活したが、代わりに言語の壁を取り払うことで「(身体的な)他者性を持つ他者」との平等なコミュニケーションに成功している。

 そして平等に構築された人間関係の中から自分(たち)だけが「生き残った勝者」として公正に認められることが、何よりも快感であるというわけだ。またこの「生き残った勝者」も対戦終了から数秒後には再び「平等な他者」として機能するため、同じ快感を求めて何度もプレイしてしまう……。そんな魔力が「バトロワ系」には潜んでいないだろうか。

虚構としてのゲームに期待すること

 これらのことが行っているのは、現実の現象(不平等なコミュニケーション)を、現実では実現していない形(平等なコミュニケーション)に変換することである。

 元来、ビデオゲームというものは現実世界と切り離された仮想空間を演出するものとして遊ばれてきた。そこにテクノロジーが発達するにしたがって「現実の他者」とのコミュニケーションが入り込み、現実を後押し(拡張)するような形でゲームが遊ばれるようにもなった。

 そしてこれらの流れを経て「バトロワ系」ゲームが行っているのは、現実の現象の変換である。すなわちゲームというフィルターを通過すると、現実の出来事が別の形に生まれ変わる。比喩的に言えば、「現実」というファイルの拡張子を変換してメディアに応じた形に書き換えることだ。

 「現実と切り離された空間を演出するもの」でなければ、「現実を拡張するもの」でもない。「現実を改変する媒介」としての虚構のあり方が、「バトルロイヤル」ゲームに現れてはいないだろうか。

■徳田要太
フリー(ほぼゲーム)ライター。『スマブラ』ではクロム使いで日課はカラオケ。NiziUのリク推し。Twitter

〈参考書籍〉
大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書、2008年)
中沢新一、遠藤雅伸、中川大地『ゲームする人類:新しいゲーム額の射程』(丸善出版、2018年)
中川大地『現代ゲーム全史:文明の遊戯史観から』(早川書房、2016年)
ロジェ・カイヨワ著、多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間 増補改訂版』(講談社、1971年)

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