VTuber・輝夜月のVRライブは「ライブ」ではなかった? “再現性”の視点から公演を振り返る
本当の仮想敵は?
結局のところ、“VTuberだから”と、トラッキングを駆使して行ってきたライブよりも、映像を流しただけのVRライブの方が筆者としては満足度が高かった。
生っぽい、ある種てづくり感すら漂う“VTuber”よりも、完成された作品が好きだという個人の傾向もあるかもしれないが、やはり作品としての強度は作り込まれたものに容易に軍配があがってしまう。
ただ改めて強調したいことは、筆者や観覧者たちは、それが映像であることに気づいていても、“輝夜月がいる”と認識していた。たとえそこに身体性が伴っていなくても、輝夜月のプレゼンスが失われなかったということは、より深い議論がなされるべきだろう。
その上で、懸念されるのは“ライブとはなにか”という点だ。繰り返し“映像”と書いているように、今回の輝夜月の公演は一回限りしか上映しない、ということによってのみ“ライブ”たらしめられている。だが、“映像”であるがゆえ、何度でもいつでも繰り返し全く同じクオリティで同じライブを体験させることもできるはずだ。
ここにライブ体験をアップデートさせるための打開策があるように思う。ニコニコ動画の最たる特徴として“疑似同期”がしばしばあがる。これは「まったく違う日時に動画を見たユーザーが、まるで同じ時間を共有しているかのように見える」というものだ。直近では『けものフレンズ』がニコニコ動画内で累計1200万再生、同サイト歴代最高再生数となるほどの勢いだったが、そのオープニングで「うー!がおー!」と打たれたコメントが、いつ投稿されたものかはわからない。ただユーザー体験としては曲にあわせて、「うー!がおー!」と打てば同じ時間にいるように錯覚できる、というものだ。
だから、今回の輝夜月ライブを見れなかったとしても、それ自体に意味がなくなっていくはずだ。なぜならライブに行けなかった、ということがなくなるからだ。行けなかったのならチケットを買えばいつでもみれる状態にすればいい。Netflixをみるくらい気軽な間隔で初演と全く同じ品質、純度で、ライブを再生してくれる。そこには観客を内包させることも可能だろう。
再現できるものはライブではない、という意見は起きるだろう。実際、今回のライブにそういった意見が表出していないことも疑問だ。繰り返し同じ公演をしても歌舞伎や舞台ならばその日ごとの違いも生まれるが、映像作品で事故は起こりえない。
だが、それでいい。“いつも動画で見ているふざけた月ちゃん”が好きなファンたちが”アーティストとしての輝夜月”をさまざまな視点で享受できるようになるからだ。今回ライブビューイングでしか参加できなかった筆者も、VRからも見たいというのが本音だ。
“映像としてのVRライブ”が発展していくならば、そういった方向がいい。輝夜月のVRライブは“VR”を広めるための日の出でもあったが、むしろライブ体験に新しい視座を与えた功績の方が大きいと筆者は感じた。
■渋谷住所(ライター)
バーチャルYouTuberが好きな無職の男。2017年12月のブーム勃興期に目覚め、
以来複数のメディアでVTuberのインタビューやコラムなどを掲載。好きなVTuberは綺羅星きらりちゃんとむすび二等兵。