『Ave Mujica』奇跡を劇場に “史上最狂のバンドアニメ”はどこにたどり着いたのか
リアルサウンド映画部の編集スタッフが週替りでお届けする「週末映画館でこれ観よう!」。毎週末にオススメ映画・特集上映をご紹介。今週は、『BanG Dream! Our Notes』のmillsageのストーリーをクリアしてからずっと体調が悪い徳田が、『BanG Dream! Ave Mujica prima aurora』をプッシュします。
※Ave Mujica関連作品のネタバレを含みます
『BanG Dream! Ave Mujica prima aurora』
映画『BanG Dream! Ave Mujica prima aurora』(以下、『映画ムジカ』)が公開された。これまで『BanG Dream!』のメディアミックスプロジェクトとして、TVアニメ、音楽ライブ、コミックス、ゲームなどさまざまな次元を横断してきたAve Mujicaが、改めて映画館にも姿を現すことになった。「史上最狂のバンドアニメ」と謳われたAve Mujicaが、いかにしてアニメーションの枠を越境し、あらゆる媒体を渡り歩いてきたのかを振り返るいい機会だ。
初めてアニメ『BanG Dream! Ave Mujica』(以下、『アニメムジカ』)本編が明かされた4th LIVE『Adventus』の画期性、メインキャストである佐々木李子の特異性、Ave Mujica楽曲の作詞を手がけるDiggy-MO'の重要性を総括してみよう。
そして、そもそもがメディアミックスである商業アニメの総体を捉えるために必要な文体の構築に挑もうと思う。それは、創作物を以下のようにしてしか捉えずにはいられない私にとって救いとなったAve Mujicaへの謝意でもある。
『Adventus』——身体を得る人形
初めて『アニメムジカ』の本編が公開されたのは、テレビ放送でも配信でもなく、音楽ライブの現場だった。2024年末に開催された4th LIVE『Adventus』の終盤で、ライブ演出の一環として第1話が会場内で上映されたのだ。
これはメディアミックス演出としては極めて独特な施策に思える。アニメーション作品を映画館で特殊上映することなどは昨今当たり前になった(『映画ムジカ』もその一種だ)とはいえ、1万人規模の会場=京王アリーナTOKYOにいる全員が、音楽ライブの途中で30分弱TVアニメの映像を眺めているというのは奇妙な光景だ。
しかし、初期映画時代のアニメーション(20世紀初頭のウィンザー・マッケイやフライシャー兄弟などの作品群)が、必ずしも「2次元の絵」として完結していたわけではないことを考えれば不思議なことではないかもしれない。たとえば『恐竜ガーティ』(1914年)では、アニメーションとしての恐竜が映る画面のすぐそばに、画面の外から彼に「指示」を出す調教師たる作者が立っていた。そればかりか、作者が不意に舞台袖に姿を消すと、今度はアニメーションとして描かれた「作者」が画面の中に現れるといったかたちで、次元横断的な演出を盛り込んだ見世物として本作は上演されていた(※1)。
したがって『Adventus』の演出は、アニメーションが「最初から」メディア越境性を強く発揮する表現形式だったことを想起させるという意味で、アニメーションの原形に立ち返るような機会だったとさえいえる。
とはいえこの演出で画期的だったのは、アニメーション本編でおこなわれた展開を、直後にキャストが自らの身体で再現したことだろう。
『アニメムジカ』第1話時点では、ロックバンド・Ave Mujicaのメンバーは仮面を被り、本名を隠したまま音楽活動をしていた。代わりに「ドロリス」や「オブリビオニス」といった役名が与えられ、メンバーそれぞれが生命を与えられた人形を演じるというコンセプチュアルなバンドとして活動していた。ところが第1話終盤で、メンバー間の軋轢が原因でライブ中に仮面が剥がされ、メンバーの本名も公に晒されることになる。
同様に『アニメムジカ』キャスト陣によるリアルバンドのAve Mujicaも、『Adventus』終盤までは仮面バンドとして活動し、活動初期はキャスト名さえも伏せられていた。素顔が初めて明かされたのは『Adventus』終盤=アニメムジカ作中で仮面が暴かれた直後だ。アニメーションとリアルライブ双方で同じ展開を同時に実現することで、虚構と現実がリンクするような演出がなされたというわけだ。
さらに加えると、3DCGでモデリングされたアニメムジカのキャラクターたち自体を広義の「人形」とみなすならば、アニメーション画面からキャスト陣が立つステージへと舞台を変更すること自体が人形が身体を得る過程とみなせる。人形たちの映像が映された「紗幕」が取り除かれ、生身の身体としてのキャスト陣が現れるこの過程は、人形たちの「仮面」が取り除かれ身体を得るプロセスを繰り返しているかのようだ。
「アニメーション」の「静止物を生命のように動かしてみせる」という意味に立ちかえるならばこれは極めてアクロバティックな演出である。さながら『トイ・ストーリー』や『ピノキオ』といった(人形を題材にした)古典作品も通じる「アニメート」への自己言及性を獲得しているかのようだ。
この『Adventus』の演出は、制作やプロモーションスケジュールの事情から偶然生まれた案だということが、ブシロード代表・木谷孝明やAve Mujicaプロデューサー・松本拓輝らのインタビューなどから明らかになっている。
木谷:今だから言えるのですが、実は前作のTVアニメ「BanG Dream! Ave Mujica」、2024年4月にはすでに完成していたんです。7月放送の予定だったのですがそれを2025年1月まで延期したのです。
――えっ。それはなぜでしょうか?
当初の放送予定だったころ、ムジカのライブの動員数はまだ2000〜2500人規模でした。それを7000〜8000人規模まで伸ばしてから満を持してアニメに突入したいと考え、私の判断で放送を延ばしました。結果的に他作品との時期の重なりも避けられる形になり、これは大正解だったと思っています。(※2)
松本:ライブの制作が進むなかでアニメの第1話をライブ中に先行上映しようという話が出てきて。「じゃあ、#1で仮面取ってるし、本人たちの仮面も取っちゃうか」と思ったのが実際の経緯なんです。とにかく「KiLLKiSS」のプロモーションのピークを2024年12月15日からの数日間に作ろうという意図があって。オープニング映像も先行して出す予定はなかったんですが、「このライブの直後に絶対出したほうがいい!」と考え公開しました。さらにそこに仮面を取るという演出を加え、「KiLLKiSS」のお祭を作ろうと。先行上映という偶然が重なった結果の産物ではあるんですが、今までずっと慎重に顔を隠してやってきたバンドだからこそ、「最高の舞台・最高のタイミング」はここしかないだろうということで決まりました。(※3)
上述したような演出が社長の鶴の一声からたまたま生まれたことを考えると、恐るべき直観である。
ただし、ピノキオが人間になったことを無邪気にハッピーエンドとする展開は「悲しむべきことだ」とする評価があるように(※4)、「人形」たちのフィクショナルな世界観が失われたことが必ずしもすべてのファンに好意的に受け入れられているわけではない。仮面バンドとしての活動時期のAve Mujicaは、ライブ中に朗読劇などを介して彼女らの世界観を表現していたが、『アニメムジカ』終了後はそのような演出はなくなりもっぱらメタルバンド然とした演出が増えていった。素顔を表した後のAve Mujicaは「別物」だとする声もある(物語上は一度解散を経ているので別物といえば別物である)。
とはいえ、この仮面の剥奪がもたらしたアニメーション表現上の示唆は大きく、他にも重要な問いを生み出してもいる。アニメ声優の存在論をめぐる問い、具体的にはドロリス/三角初華役の佐々木李子は誰を演じているのか? という問題である。
佐々木李子のリップシンク
人形たちが生身の身体を得たからといって、アニメーション作中のそれと現実の出来事がまったく同じだというわけではもちろんない。現実のキャストの身体はあくまでもキャラクターの演技としてあるのであって、本人そのものではないからだ。
したがって現実世界での「キャラクターの身体」は慎重に構築されている。原則としてAve Mujicaのライブではキャスト本人によるMCはおこなわれないし、オーディエンス側も「演技以上のふるまい」として、キャラクターの現前を積極的に認めるための主体的・創造的態度が要請される(※5)。オーディエンスが(キャラクター名ではなく)キャスト名を必要以上に叫ぶのは時に「マナー違反」とされる暗黙の規範さえある。キャストとオーディエンスの、ある種の共犯関係によって現実のキャラクターの身体は成立しているのだ。
例外があるとすれば佐々木李子である。
ギターボーカルを担当する佐々木は「ドロリス/三角初華」役としてクレジットされているが、実際に演じていたのは別のキャラクターであったことがアニメムジカ終盤で明らかになる。「初華」とは三角初音の妹の名であり、初音は初華の名前を半ば剥奪するかたちで生活しているのだった(詳細は後述するが、2人が父親違いの姉妹であること、それによる家庭内の「身分」の混乱、性愛に基づいているであろう初音の嫉妬心などがこのような状況を生んだ。女子高生をメインキャラクターとしたバンドアニメとしては奇抜な設定であり、スタッフインタビューなどでの「補足」が出回るたびにファンの間で議論が白熱する)。
佐々木が主に演じていたのは初華ではなく初音のほうだったのだが、それを隠蔽するかのように一部始終が明かされた『アニメムジカ』第11話のエンドクレジットでは「三角初華 佐々木李子」という1行が他のキャストとは切り離されたかたちで強調される。このスキャンダラスな事情を把握しているのは作中でもごくわずかな人物に限られており、Ave Mujicaに加えてアイドルとしても芸能活動をしている「初音」は、あくまでも世間的には「初華」として振る舞っている。同様に、現実世界の佐々木も動画番組や音楽フェスなどで自身の役名を紹介するときは「ドロリス/三角初華役の佐々木李子」と名乗る。
つまり作中の振る舞いと同じように、佐々木は世間的には初音のことを「隠蔽」している(もちろん単にネタバレ防止や後付け設定であるなどの事情はあるにせよ、行為遂行的にそうなっている)。「三角初華のふりをしている」という点で、佐々木李子と三角初音は「同じこと」をしているのだ。
これはリップシンク(声と映像の同期)によって実在性を高めてきたアニメーションの歴史を考えると興味深い事実である。
ディズニー初のサウンド・アニメーションとなった『蒸気船ウィリー』(1928年)が作られたのは、「世界初」のトーキー映画『ジャズ・シンガー』(1927年)にウォルト・ディズニーが影響を受けたからとされている(※5)。録音技術がままならなかった時代において、作中の動作と実際に視聴者に聞こえる音が同期することは、映像作品のリアリティを飛躍的に向上させた。アニメーションでそれを実現させた『蒸気船ウィリー』を機に映像と音の同期技術は高まっていき、たとえばディズニーであれば「音楽アニメ」の古典である『ファンタジア』(1940年)に結実する。アニメーションにおける視覚表現が現実のデフォルメであるのに対して、作中で鳴っているとされる音楽は視聴者に実際に聞こえるそれと「同じ」であるから、音や声の同期=リップシンクはアニメーションの実在性を高めるというわけだ(※6)。
そう考えると、『BanG Dream!』の一部のキャスト陣は、声だけでなく楽器演奏も自らの身体に同居させているため、二重の意味でのリップシンクを成立させている。あるいはリップシンクと、いわばフィンガーシンク(※7)を生身の身体で両立することでキャラクターの実在性を高めているといえるだろう。
その中で佐々木李子だけはやはり特異な存在である。「ある人物(三角初華)を演じる」ということ自体が作中の人物(三角初音)と同期しているからだ。
そうなると、キャラクターの身体を成立させるためのキャストとオーディエンスによる「共犯関係」の意味も変わってくる。佐々木が初音のことを世間に隠蔽するように、真相を知っている視聴者=オーディエンスも佐々木のことを初音ではなくドロリス/三角初華としてみなす。すると佐々木とオーディエンスの間で、三角初華の正体を隠蔽するという共犯関係が成り立つ。音楽フェス(『アニメムジカ』未見のオーディエンスが多数参加する場)においては特にそうだ。Ave Mujicaのファンが物語作中の世界観に準じて「共犯者」と呼称されているように、文字通りの共犯がおこなわれるだろう。
『アニメムジカ』終了後のAve Mujicaメンバーは、ライブ中にMCだけでなく人形としてのセリフすら発しなくなくなったが、それはAve Mujicaの表現手段が減衰したことを意味しない。むしろ隠蔽と沈黙こそがAve Mujicaの世界観を強化するのだ(ポエトリーリーディングを駆使するMyGO!!!!!とは対照的である)。
『映画ムジカ』と三角初華/初音問題
初音のことを隠蔽しなければならない事情は『アニメムジカ』本編で語られる。まず初音は大企業・豊川グループの会長、豊川定治の「隠し子」である。身内の派閥争いが厳しいらしい豊川家に対して、定治はこのスキャンダラスな事実を隠している。そのため初音の芸能活動を辞めさせたいと考えているが、かといってあからさまに実力行使するわけにもいかない(陰ながらAve Mujicaのスポンサーを務めたりもする)。
要は後宮ものめいた身内間政治劇が展開しており、初音は政敵にとって定治失態の切り札となりうるのだ。
一方で豊川祥子(Ave Mujica発起人)は定治の孫であり、豊川グループの正式な令嬢である。Ave Mujicaのメジャーデビューに豊川家の権力を利用する(所属芸能事務所に豊川グループが出資しているようだ)一方、身内同士のいざこざを嫌悪している(実の父親が商談ミスの結果、豊川家内で落ちぶれてしまう)。
やがて祥子は初音の事情を知ったうえで、改めて彼女とともにAve Mujica継続を決意する。祥子は定治の弱味を握るかたち、いわば初音がある種の人質として機能するかたちで優位に立ち、バンド活動を続けるのだった。初音の動機はといえば、(明言はされないが)祥子のことを恋慕しているため三者にとっての「共犯」が成り立っている。
もちろん定治にとっての弱味ということは、令嬢である祥子にとっても都合が悪い事実だ。したがって祥子にとって初音は、定治に対しての切り札でありながら、自らをも滅ぼしかねない諸刃の剣である。
OP映像で左右(非)対称のシルエットとして描かれる初華/初音は、祥子にとっての福音(kiss)であるとともに、自らをも刺し貫きかねないダモクレスの剣(kill)なのだ。
一方、『映画ムジカ』では、初音と祥子の束の間の平穏が描かれる。桜の並木道を歩く2人は、食事の約束などをしながら仲睦まじく歩いている。2人の平穏を観測できるのは、映画館という閉鎖空間にわざわざ足を運ぶ訓練された共犯者たちの特権だ。
しかし、街中には豊川グループ企業の広告がひしめいており、この大企業の呪縛から逃れられないことを予感させる。やがて報じられたのは、なんと定治の会長辞任である。「一身上の都合」とされているが、初音のことがどれだけ絡んでいるのかは『映画ムジカ』では明言されない。
どのような事情であれ豊川家の後ろ盾を失った祥子は、Ave Mujicaの独立を決意する。各メンバーはそれぞれの目標・生活があるなかでどのような決断を下すのか。進退は2027年1月放送予定の続編TVアニメで描かれるようだ。
いずれにしろ、資本なき芸能活動がいかにして可能かという問いは、数々の声優音楽グループを手掛けてきたブシロードによる自己批評のようである。未成年の音楽活動を描くうえでビジネス面に触れるかどうかは大きな焦点になるが、たとえば近作のTVアニメシリーズ『バンドリ!ゆめ∞みた』では、メインキャラクターは冒頭時点で芸能事務所にスカウトされたミュージシャン/ストリーマーである少女たちという設定が採用された。キャスト陣はTVアニメ放送以前から動画配信活動をしていたこともあいまって、未成年の音楽活動が商業活動であるという前提を自然に、かつ潔く提示することに成功していた。
一方でインディー活動を巨大資本=TVアニメ製作主体が肯定することには矛盾がつきまとう。東映アニメーションの『ガールズバンドクライ』などもこの問題に直面しているが、もし独立後のAve Mujicaがこの問題をクリアできたならば、改めて「史上最強のバンドアニメ」を名乗るに値するだろう。現時点では、祐天寺にゃむを中心にファンクラブビジネスに真剣に向き合うさまが描かれている点が興味深い。
なお『映画ムジカ』前半部(第一幕)のライブパートへの言及はスタッフインタビューやリピート鑑賞、続編の情報が充実した後に回すこととしたいが、ひとまず言えるのは、ライブ中の演劇パートが(「人形」とは別の形で)復活していることから、キャストのリアルライブとの関係性にまた新たな演出が加わりそうということだ。