『ブラッサム』珠と清治の間で反転した“自由”の意味 宇野千代が咲かせた自分という花
どんなときも「最高です!」と答えていたという作家・宇野千代。最初の結婚ではわずか10日で婚家を飛び出し、取材で出会った画家とはその日のうちに同棲を始め、麻雀賭博で検挙されたことも。雑誌経営の破綻で巨額の借金を背負いながら、仕事を重ねて完済。95歳になっても「今が結婚適齢期」と語っていた。その波乱に満ちた人生には、きっと「最高」とは思えない日もあっただろう。それでも、自分という花を咲かせた人の言葉として聞くと、その明るさには違った重みが感じられる。
そんな宇野千代をモデルにしたNHK連続テレビ小説『ブラッサム』が、9月28日にスタートした。朝ドラという枠で、その人生をどこまで描くのか。晩年の主人公・葉野珠を演じる加賀まりこは、放送前、「中途半端なきれい事にしないことだけを心から祈っています」と制作陣に言葉を寄せていた。最初の2週間は、その願いに応えるように、ひとことで捉えきれない人間を描いた。珠の父・清治(渡部篤郎)である。
清治は、岩国の蔵元の長男として生まれながら、足の不自由な弟・清重(三浦誠己)に家督を譲り、その代わりに毎月金を受け取って暮らしている。働かずに遊び歩き、家では家族に理不尽な命令をする。珠を雨の中、裸足で使いに出し、罰として蔵に閉じ込める。継母・リョウ(国仲涼子)にも怒りをぶつける姿は、見ていてつらくなるものだった。
それでも、この父を「放蕩無頼」の一言で片づけられなくなったのは、珠の作文があったからだ。ある夜、珠(村上蘭)は縁側でカナリアを見つめる清治の横顔を目にする。笑っているような、どこか物悲しいような表情。珠はそれを、学校の作文に書いた。「そこに放蕩無頼の徒は見当たりませんでした」。清治は、その文章を喜んだ。
珠は父を美化したわけではない。理不尽な父の姿と、カナリアに心を寄せる姿の両方を見つめていた。清治にとっては、誰も見ていなかった自分を、娘が見つけてくれた喜びがあったのかもしれない。父親としての評価から離れ、ただ一人の人として見つめられる。その作文が、一瞬だけ清治を自由にしたようにも思える。
清治自身は、カナリアに「窮屈そうじゃなあ、お前も」と語りかけていた。「一生自由に暮らす」と宣言し、実際、思うがままに生きているようでいて、本人は窮屈だったのだ。長男なら家を継ぎ、父親なら家族を養う。そうした期待から逃れようとしても、今度は役割を果たさない者として「クズ」「放蕩無頼」と呼ばれる。「男」「長男」「父親」という檻から、結局は出られなかった人とも読める。
家族を威圧し、支配する一方で、自分に向かってくる意思を清治が喜んでいるように見える場面もあった。料理屋で暴れて珠が迎えに来たときには、誰もけんかに乗らないと愚痴をこぼす。珠が嫁ぎ先から戻ってきても怒らず、めずらしくリョウから「病気のときくらい、言うこと聞いてください!」と諌められたら大人しく従う。妻や子どもにも、役割を越えて自分に立ち向かってほしかったのだろうか。
第10話、病によって錯乱した清治は、包丁を手に家を飛び出す。珠の呼び声に少し正気を取り戻すと、娘を抱きしめ、「わしゃ、結局、何も……」「死にとうない」と呟いた。「一生自由に暮らす」と言っていた人の「結局、何も」という言葉。働かずに遊び歩き、好き勝手に振る舞っても、窮屈さは解けなかった。その最期に、自分を自由にするものを見つけられなかった無念を感じた。
一方、珠には、自分を自由にしてくれる物語があった。罰として閉じ込められた蔵の中でも、本を読めることを喜んでいた珠。物語に触れている間は、父に支配される暮らしを離れ、心を自由にすることができたのだ。自由に見える暮らしの中で窮屈さを抱える父と、不自由な暮らしの中で自由を知った娘。その対比が印象深い。