北村匠海×内山拓也『しびれ』が映す孤立と愛の模索 声なき青年の眼差しが突きつけるもの

 幼い頃に親に虐げられ、誰にも頼ることができないまま一人で生きている人々が、日本社会にどれだけいるだろうか。福祉や教育にも繋がれず、孤独な日々を送っている子どもたちに、いったいどのような人生が待っているのだろうか。内山拓也監督の最新作『しびれ』は、そんな人々の一人として生きる人物の成長を見つめていく映画だ。そして彼が、何を求め、どのような道を選び取っていくのかを描いていく。

 『しびれ』の主人公・大地の成長した姿を演じるのは、北村匠海。その母親を宮沢りえ、父親役を永瀬正敏が演じている。家族に恵まれなかった人間が、その人生のなかで囚われ続ける、過去の出来事や親との関係……。本作は、深刻な思いを抱えながら、一人の青年の姿を主観的に表現する。そこで映し出される大地の境遇を追うことで、観客自身も家族や過去というものを見つめ直すことになるだろう。ここでは、そんな本作『しびれ』が、いったい何を描き、いまの社会や観客の心をどのように照らし出すのかを考えていきたい。

 冒頭、幼い子ども時代の大地の姿が映し出される。大地は新潟で両親とともに暮らしていたが、酒浸りの父親が暴君のように振る舞う過酷な環境に身を置かれ、その光景を目の前で見続ける。ある日、その理不尽な抑圧のなかで、彼は声を失ってしまう。精神上の問題によって、言葉が出なくなってしまったのである。複雑なコミュニケーションを取るために、筆談することを覚える。

 やがて大地は母親と二人で暮らすことになる。だが母親もまた、夜の仕事で家を空けることが多く、大地に孤独を抱かせるような存在だった。生活は安定しておらず、母親は酒に溺れるようになっていく。まだ子どもの大地は、農村を歩き回って野菜を集め、それを使って食事を作り、健気にも母親に食べさせようとすらする。

 ある日、大地は絶望のなかで海へと入っていく。そこに居合わせたのが、ロシアからやってきた労働者のイワンだった。自身も不安定な状況に置かれ、日本で厳しい現実に直面しているイワンは、死のうとする大地を引き留め、勇気づける言葉をかけようと精一杯に呼びかける。家族も、社会からも守られてこなかった少年を、遠く離れた地から来た一人の男が救うのである。そんな経験を経て、大地は声を取り戻すことができないまま大人になった。

 カメラは常に大地の近くに位置し、彼の表情を捉えたり、彼が見ているものを追うようにして画面が構成されていく。大地が何を考えているのかを、ナレーションや説明的な台詞によって伝えることはない。観客は、困難な現実に対峙しなければならない大地がどのような状況に置かれているのかを、彼と同じ場所から見つめることになるのだ。この演出は、大地が声を失った人物である設定とも深く結びついているように思える。そして観客は、声を失くした彼がいかに家族から、そして社会からも消された存在であるかを実感させられるのだ。

 こうした人物への接近方法から連想される映画作品の一つが、ダルデンヌ兄弟監督による『ロゼッタ』(1999年)である。同作では、仕事を得て生き延びようとする少女ロゼッタの身体にカメラが張り付き、彼女の行動を追い続ける。カメラは彼女の心理を外側から解説するというよりも、ほとんどその身体の運動そのものについて動く。その演出は、人物の生存にまで踏み込んだ物語に寄り添うためのものなのだ。

 本作『しびれ』においても同様だ。われわれは大地を理解するより先に、その場に立ち会うことで、彼が置かれた状況の重さを受け取っていくのである。学校に通っていない彼は、同年代の子どもたちに興味を惹かれつつも、遠巻きに見つめることしかできない。海に入っていく場面では、カメラ自体も溺れるような位置で波に翻弄される。

関連記事