是枝裕和監督『ルックバック』の存在意義を考える 原作の強みと実写映画ならではの“改変”

 とはいえ、『ルックバック』が、よりリアリティを獲得したことで、不安定になった点もある。原作『ルックバック』では、京本がある事件に巻き込まれる場面をめぐって、発表当時からさまざまな議論が起こった。とくに犯人の描写については、精神疾患をわずらう人への偏見を助長するのではないかという点や、被害者が多数存在する実際の事件を題材にしているという指摘があり、原作は初公開後に一部の表現が修正されている。

 したがって、現在読むことのできる原作の犯人像は、発表当初のものとは異なっている。今回の実写版では、部分的に注意深く原作の意図に沿うかたちに表現しながら、さらに犯人の人物像を淡白なものにしているように感じられる。そのバランスは、各所に配慮しつつ物語も阻害しないものとして、妥当な判断だと思える。

 だが、美術大学に恨みを持って不特定の学生を襲おうとするという犯人の凶行は、『ルックバック』全作に共通した展開でありながら、もともと不自然に感じられる点でもある。実際に起きた類似の事件と比べると、犯人の心理に起きたことと、そこから学生を襲うという行動には距離があるように思えてならないのだ。

 これは、おそらくは現実の問題と、作品に投影していた原作者のルーツである、在籍していた美術大学を結びつけたことで発生した齟齬であるように感じられる。これが、さまざまなシーンにおいて登場人物の精神を丹念に描いている『ルックバック』に共通する、珍しい弱点として数えられるだろう。実写映画では、多くの場面を詳細に膨らませながら、この事件部分に光を与えることは回避した。ゆえに、この点の背景やロジックが弱かったことが、逆に露呈してしまったことになる。

 また、基本的に忠実さを保ちながら作品世界を膨らませていくなかで、原作にはない印象的な場面もいくつか加えられている。その一つがアニメーション場面だ。『化け猫あんずちゃん』(2024年)の監督でも知られる、ロトスコープを駆使するアニメーション作家・久野遥子による、やはり本作の実写映像を応用していくファンタジックな描写は、本作の大きな見どころとなっている。

 劇場での第2弾入場者プレゼント『Special Booklet Volume1』では、原作者と監督との対談が収録されているが、そこで藤本は久野遥子の才能を絶賛している。大学の卒業制作に挑む際に、さまざまな美術大学の卒業制作をリサーチするなかで、圧倒的な表現力を持つ久野のアニメーション作品を目の当たりにして敗北感を味わい、漫画に没頭することを決めたのだという。その意味では、ここに久野のアニメーションが挿入されたことには意味が発生している。

 もともと、藤本は山形の美術大学に進学するなかで、漫画の世界と美術の世界を経験してきた作家である。『ルックバック』における藤野と京本は、そうした二つに分裂した藤本の感性を投影したキャラクターだと考えることができる。それは、「“藤”野、京“本”」というネーミングからも類推できる。京本が姿を消し、藤野が漫画に打ち込む姿で作品が終わるのは、原作者・藤本が、漫画の世界で生きるという宣言でもあると考えられる。

 人間の時間は有限だ。可能性を選択するということは、他の可能性を消すことでもある。藤本は漫画で生きる方を選び、美術への夢を追う自分を大学時代に“殺害”したのだと考えれば、やや不自然にも感じられた、『ルックバック』の“事件”に一つの解釈が与えられるのだ。そこに卒業制作への藤本の熱意を萎えさせた久野のアニメーションが追加されたことで、偶然かもしれないが、結果的に一連の表現に現実を含めた立体的な構造が生み出されたといえるのだ。

 一方で、この場面をどう受け取るかは、少し考えさせられるところだ。藤野は漫画家として成功することを夢見ており、京本はもっと絵が上手くなりたいという思いから美術大学を目指すというのが、基本線であったはずだ。それぞれが別の方向へ進んでいくからこそ、一時期だけ二人で漫画を描いていた時間が特別で美しいものになっている。

 ところがここでは、アニメーションという表現を介して、二人の夢が一つの“あり得た”未来につながるように描かれている。藤野の漫画がアニメになり、その作品のために京本の画力が活かされる。本作では、『となりのトトロ』(1988年)の背景美術を担当した男鹿和雄の画集を劇中に登場させることで、京本の進路がアニメーションへと誘導されている。藤野の漫画をアニメ化するという夢への合流が示唆されるのだ。

 原作が描いていたのは、同じ夢を持った二人が最後まで一緒に進んでいく物語ではない。むしろ、才能も性格も異なる二人が、お互いの存在に刺激を受けながら一時期だけ同じ場所で創作し、その後は別々の方向へ進んでいく。その関係そのものに『ルックバック』の魅力があり、そこにこそ藤本タツキの作家としてのパーソナリティが表れていたように思えるのだ。

 個人の内面を色濃く投影した作品から、客観性や普遍性を帯びた、クリエイターの物語へ……。それは、藤本タツキの手から、作品が離れた瞬間でもある。本作の劇中で、菅田将暉が演じる編集者が語る、プロの作家が辿ることになる“寂しさ”が、まさにここにあったのではないか。

 基本的に原作の描いたものを崩そうとしていなかった、実写版『ルックバック』。しかし後半部分の追加シーンを見ると、作品の解釈そのものを変更しかねない部分もあったことが理解できる。忠実な描写のなかで豊かさを追い求める姿勢、そして“手を動かす作家”の実感から、やや離れたアプローチと、客観的な作品の理解。これらは表現のベクトルの問題であり、優劣とはまた別のものだ。こうした要素をどのように評価するかは、観客それぞれが考え、自分の好みのものを選び取るのが正しいのではないか。

■公開情報
『ルックバック』
全国公開中
出演:出口夏希、蒔田彩珠、七瀬ふうり、岡田六花、菅田将暉、宮藤官九郎、野呂佳代、池田良、佐々木みゆ、山田真歩
原作:藤本タツキ『ルックバック』(集英社ジャンプコミックス刊)
監督・脚本・編集:是枝裕和
音楽:坂東祐大
撮影:上野千蔵
企画・プロデューサー:小出大樹
後援:秋田県にかほ市
配給:K2 Pictures
©藤本タツキ/集英社 ©2026 K2Pictures・集英社
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