『まどマギ』の“作画回”をアニメーターが分析 “情報量が多い”とはどういうことか?

 『魔法少女まどか☆マギカ』というシリーズには、すでに長い時間が積み重なっている。

 2011年にテレビアニメの放送が始まってから、15年以上が経った。そのあいだには劇場版やゲーム、外伝作品が作られ、2026年には新たな劇場版作品も公開された。最初のテレビシリーズと現在とのあいだには、それだけの時間がある。

 もちろん、その時間は空白だったわけではない。

 その途中で作られたものの1つが、『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』である。『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』が公開され、あらためて『まどか☆マギカ』のアニメーションを見る機会が生まれたいま、少し時間をさかのぼって、2021年に放送された『マギアレコード 2nd SEASON -覚醒前夜-』第1話を見てみたい。

TVアニメ「マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-」ノンクレジットOP/ClariS「ケアレス」

 この回では、まどかとほむらが「委員長の魔女」と戦うなか、神浜市から戻ったさやかが2人の前に現れる。その一連の場面で、長田寛人は性格の異なる作画を見せている。

 そのカットを見ていると、「情報量が多い」という言葉を使いたくなる。髪や衣服には細かな形や明暗があり、それらが大きく動く。身体の位置は短い時間で変わり、刃や画面を横切る物体、砕け散る破片まで次々に現れる。

 しかし、「情報量が多い」とは、そもそも何が多いということなのだろうか。

 1枚の絵に描かれた線や明暗なのか。画面に存在する物の数なのか。それとも、短い時間のなかで起こる変化の数なのか。

 とはいえ、画面に多くのものがあることと、それらが観客に同じように見えていることは同じではない。カットを1枚ずつ止めれば確認できるだけの情報量を、通常再生では追えないことがある。反対に、1枚1枚の形を詳しく確認できなくても、「何が起きたのか」ははっきりと見て取れることもある。

 このように、そもそも、形を見ること、動きを見ること、そして何が起きたのかを認識することは、同じ意味で「見えた」と言えるのだろうか。

 長田が作画を手がけた2つの場面から考えてみたい。

同じ画面でも、「多さ」は同じではない

 1つ目は、強い風のなかに立つさやかを描いたカットである。
 
 画面の手前には、さやかが立っている。その姿は、1枚の絵としても細かく描き込まれている。衣服にはハイライトが入り、それとは別に複数の影の面が置かれている。輪郭だけでなく、明暗によっても形が細かく区切られている。

 しかし、このカットを再生すると、1枚の絵として見るだけでは分からなかった別の「多さ」が現れる。強い風を受けて、さやかの衣服は激しくなびく。身体から大きく離れるように広がったかと思えば、すぐに別の形へ変わる。短い時間のなかで、輪郭そのものが何度も更新されていく。つまり、さやかは細かく描かれているだけではない。その細かな形が、時間のなかで速く、頻繁に変化している。

 また、画面に映っているのはさやかだけではない。さやかより奥には、物干し竿に掛けられたセーラー服が見える。さやかとセーラー服は、静止した絵として比較するだけでも描かれ方が違うことがわかる。セーラー服にハイライトはほとんどなく、影は大きな1つの面としてまとめられている。明暗による形の分割も、さやかより少ない。

 動き始めると、その差はさらに大きくなる。セーラー服も風に揺れている。しかし、さやかの衣服ほど速くは動かない。輪郭の変化も比較的小さく、1つの形がより長く保たれている。どちらも同じ画面の中で風を受けているにもかかわらず、さやかとセーラー服は1つのまとまった動きには見えない。

 一方では細かな形が素早く変わり、もう一方では比較的単純な形がゆっくり変わる。位置や輪郭だけでなく、その動き方の違いも、「こちら」と「あちら」を別のものとして見る手がかりになっている。

 仮に、さやかの衣服と奥のセーラー服が、同じ速さ、同じ大きさ、同じタイミングで揺れていたとしよう。静止画として見れば、それぞれの輪郭は当然別々に存在する。しかし映像として再生したとき、2つの運動は今よりも区別がつきにくくなってしまうだろう。

 反対に、動きの大きさや速さが異なれば、細かな輪郭を1つずつ追わなくても、2つの運動を分けて見ることができる。

 つまり重要なのは、「大きく動いていれば分かりやすい」ということではない。

 どれだけ動いているかだけでなく、周囲のものとどれだけ違う動きをしているかが、対象の見え方を変えている。

 そして画面に動くものが増えれば必ず見づらくなるわけでもない。多くのものを動かすことと、それらを見分けやすくすることは、必ずしも反対ではないのである。

1枚1枚を見なくても、アクションは見える

 同じ第1話には、これとは別の仕方で「見ること」を考えさせるアクションがある。

 さやかの身体が、画面の手前へ大きく近づく。しかし、その距離はすぐに変わる。次の瞬間には、さやかは急速に画面の奥へと遠ざかっていく。カメラはさやかを追うが、途中で画面の中心は刃に移る。さらに巨岩のようなものが画面を覆い、さやかの姿はいったん隠れる。

 その直後、さやかは岩を斬り裂きながら再び画面に現れる。1つだった巨岩は無数の破片へと変わり、画面の各方向へ散っていく。

 この一連の変化は、ごく短い時間のなかで進む。コマ送りにすれば、その途中に多くの形が描かれていることが分かるだろう。さやかの身体は何度も姿勢を変え、刃にもそれぞれの瞬間の形があり、最後に飛び散る破片も1つ1つ異なる輪郭を持っている。

 しかし、通常の再生速度では、それらすべてを同じように見ることはできない。視聴者はさやかが遠ざかる途中の姿勢を、1つずつすべて確認しているわけではない。最後に飛び散った破片の数を数え、それぞれの形を見分けているわけでもない。

 それでも、何が起きたのかは、ひと続きの出来事としてはっきりわかる。さやかが近づき、遠ざかる。刃が前に現れる。大きな物体によって姿が隠れる。そして、それを斬って再び現れる。1つだった物体が砕け、無数の破片になる。

 個々の形をすべて確認できなくても、この一連の変化は1つのアクションとして見て取れる。

 だから、動きの途中経過1つ1つを把握できないからといって、この「速さ」を単純な「情報の欠落」と考えることはできない。

 破片1つ1つの形が見えないことと、「ある物体が砕けた」という出来事が認識できないことは同じではない。途中の姿勢をすべて確認できなくても、「さやかが移動した」という出来事まで見えなくなるわけではない。細かな形を1つずつ追わなくても、その前後がつながることで、「近づいた」「隠れた」「斬った」「砕けた」という流れは見て取れる。

 ここで、動作が変化するタイミングが決めているのは、単なるアクションの速さではない。それぞれの形をどれほど長く見せるのか。そして、連続する変化をどのような1つの動きとして見せるのか。

 変化のタイミングは、1枚の絵を見るための時間を決めると同時に、それらの絵をどのような出来事として見るのかにも関わっている。

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