『田鎖ブラザーズ』の面白さの本質は“考察”ではない 復讐劇が私たちに問いかけたもの
「復讐するは、我にあり」。この言葉を聞くと佐木隆三の小説、あるいは今村昌平の映画をどうしても想起してしまうが、もともとは新約聖書の「ローマの信徒への手紙」12章の一節である。自らの手で復讐するのではなく、神の怒りに任せなさい。――すなわち、悪に裁きを下すのは人間ではなく神なのだと。信心深さというものは人それぞれであるがゆえ、いまひとつ釈然としない人もいるだろうが、『田鎖ブラザーズ』で描かれる真(岡田将生)と稔(染谷将太)の“田鎖兄弟”がたどる復讐の物語を見ていると、この言葉の意味がよくわかる気がする。
1995年4月26日の夜に両親が殺害され、その事件は15年後の2010年4月26日に時効が成立する。改正刑事訴訟法によって殺人事件の時効が廃止となる前日のことだ。人間が作りだした制度とはいえ、ある意味で“神に見放された”といえる兄弟は、その後も事件の犯人を追いながら、真は刑事に、稔は検視官になる。もちろん犯人を見つけたところで、すでに時効になっているので法の裁きを受けさせることはできない。当然彼らの目的は、自らの手で犯人を裁く“復讐”に他ならないのだ。
ドラマ序盤、兄弟は長年にわたって犯人であると信じつづけていたノンフィクション作家の津田(飯尾和樹)の居場所を早々に見つけだす。しかし彼は末期癌に侵され昏睡状態であり、結局兄弟が事件について聞き出すこともできぬまま亡くなってしまう。復讐を果たすこともできず、このまま彼らの復讐譚は呆気なく終わってしまうのかと思いきや、実は津田が犯人ではないことが判明。すべてがふりだしに戻ったと同時に、物語はより複雑な方向へと転じていくのである。
このあたりで物語の作劇としてはいくつかの選択肢があったように思える。たとえば津田をそのまま犯人として、復讐という計画が宙ぶらりんになってしまった兄弟が事件の背景を探っていったり、津田の向こう側により大きな悪が存在し、それに対して復讐を果たしたり。けれども津田が犯人ではないとまっさきに確定させることによって、ドラマ全体にミステリーとしての最もシンプルな旨味を残すことができる。そうして事件の背景や、巨悪ともいえる存在について掘り下げながら、兄弟の絆や人間ドラマなども含めた多層的な物語運びが可能になるわけだ。