大河ドラマは「超大河」へ進化すべきか? 『豊臣兄弟!』から考える“史実”を描く意味
NHK大河ドラマの歴史は長い。1963年から63年も続いている。昭和、平成、令和と3つの時代を駆け抜けそのつど時代に合わせてアップデートしていると思うが、世代によって大河に求めるものに違いがあり、肯定や否定、様々な意見が飛び交う。それが豊かな議論になればいいが分断を生むのは残念だ。
例えば、歌舞伎は古典や新作に分けている。最近では「超歌舞伎」という新たなレーベルが生まれている。大河ドラマもそろそろシン・大河や超大河、新解釈大河などのライン展開を考えたほうがいいのではないか。現在放送中の『豊臣兄弟!』を観ながらそんなことを考えた。そう思ったのは、第17回の内容が賛否両論だったからだ。
『豊臣兄弟!』は豊臣秀吉(池松壮亮)を支えた弟・秀長(仲野太賀)を主人公にした物語だ。第18回「羽柴兄弟!」から兄弟の名字が「羽柴」になる。羽柴筑前守秀吉と羽柴小一郎長秀としてこれからますます活躍していくことだろう。それ以前の秀吉と秀長はまだまだほかの強烈な戦国武将の影に隠れた印象を受ける。第17回「小谷落城」で描かれた元亀3年(1572年)~天正元年(1573年)の頃、時代の中心は織田信長(小栗旬)だ。秀吉と秀長、明智光秀(要潤)は信長の家臣で、徳川家康(松下洸平)も同盟者ではあるが実質、信長の下のような立ち位置である。
信長に対峙するのは武田信玄(高嶋政伸)、浅井長政(中島歩)、朝倉義景(鶴見辰吾)、室町幕府15代将軍・足利義昭(尾上右近)。この者たちが第17回で一掃された(義昭以外は死亡)。歴史上、家康がひどい大敗をした三方ヶ原の戦いと浅井、朝倉攻めは大きなトピックだ。長政が亡くなり、市(宮﨑あおい)と3人の娘たちが生き残るにあたり、茶々がのちに秀吉の側室になることを視聴者の多くは知っている。つまり浅井家の滅亡はこの出来事はのちの豊臣家にとっても極めて大きな転換点となる。
ドラマによってはここで後の展開を匂わせることも少なくない。『豊臣兄弟!』ではそれはなく、3人の娘と秀吉の接点は描かれなかった。その代わり、秀長と秀吉は市の行動に多大な影響を与えるおとぎ話を語る。
『豊臣兄弟!』では農民出身の秀吉と秀長(とりわけ秀長)は序盤から徹底して武士の誇り=死というものを重視しておらず、とにかく生き延びることを第一にしている。第17回では秀長と秀吉は長政に死なないように説得するし、信長も長政が死なずに済むよう手配しようとする。でも史実を変えることはできないから長政は結局切腹して果てる。しかも市の介錯によって。
大胆な空想歴史ものならば、長政が死なない世界線も可能かもしれない。大河ドラマの冠があるとそこまで空想の翼を広げることはさすがに難しいだろう。こんなときシン大河、超大河、新解釈大河などと別ラインにしておけば、そういうものだと無駄な論争が起こらないで済むのではないだろうか。
『豊臣兄弟!』では長政が生きていられそうな状況にもかかわらず、みすみす死を選ぶ理由を創作している。市の兄・信長に親しみを覚え、敵対することを好まなかったが、事情によって裏切ることになったとき、ふと天下をとる野望がよぎった。そんな自分がゆるせない。そんな思いが長台詞で語られる。
ドラマのなかで突然の自分語りは作劇上の都合であることがほとんどである。国会答弁なんかによくあるが、現実社会で何か問題があったとき、出まかせでその場をうまく回避してしまう才能のある人がいる。長政が死を選ぶ理由はなんだかそういうニオイがした。断っておくが、ドラマの長政は誠実そのものだ。演じる中島歩も巧くそれを表現している。
だからこそ歴史に沿うために辻褄を合わせさせられたようで惜しく思うのだ。信長を道理のわかった人に描くため、長政が自分に芽生えた野心を恥じて死を選ぶのは無理くりでは、という疑念を感じさせなくする手はずも十分だ。市が介錯する大きな衝撃によってそれは気にならなくなる。作家として器用だし巧い。
武田信玄の死因もそういうテクニックのニオイがした。自分がついた餅を喉につまらせて死ぬ。視聴者はそれがのちの「信玄餅」と想像を膨らませ、SNSは盛り上がった。おもしろいといえばおもしろい。でも、信玄の物語がほとんど描かれないまま、死だけが面白く消費されてしまったようにも感じる。あくまで秀長の物語なので信玄の話に尺がとれないのも理解できる。そういうときこそ、今年は漫画やアニメのようなテイストで描く「超大河」ですと別ラインを提示したらむしろ楽しめるのではないだろうか。